「偏差値」より、私は「変さ値」(松尾造語)の方が大切ではないかと考えている。特徴的に、他とは違うことである。
一般的に「変」と言われるのは、褒め言葉ではない。しかしながら「君は普通だね」「どこにでもいるタイプだね」と言われても嬉しくないのではないか。
実際、学校教育では「変さ値」を求めない。なぜならば、学校教育は、到達すべき学習内容の程度が定まっており、そこを基準とするからである。つまり各学校、学級で「平均」の値を上げることが求められる。
テストでは独創的であることよりも、学習内容を忠実に再現する力が求められる。
学校生活においても、協調性が何よりも大切である。「みんな揃って」が習い性になっており、大好きなのである。
あらゆることにおいて、あまり「普通」から外れていないことが大切である。だから、学力状況調査でも、平均点を必ず出す。「普通」への到達度を知らせるためである。
また、「普通」から外れた「変なやつ」は、いじめの対象でもある。理由は「普通じゃない、変だから。」である(ちなみに、能力的に上に突出していてもいじめられる)。
これは、よろしくない。よろしくないが、現状仕方ないことである。先に述べたように、大人も子どもも平均から見た比較、ランキングが大好きなのだから仕方ない。
そして都道府県間の学力を比べたところで、所詮「どんぐりの背比べ」である。こんなことに世間が一喜一憂、反応するから、教育委員会の方も指導せざるを得ない状況になって、学校現場も困るのである。自分たちで互いに首を絞め合って、苦しみあえぐ。毎度言っているが、人間というのはどうしようもない「ドS&ドM」な生き物である(ちなみに、これは文科省が本来求めているところではない。世間が勝手にランキングをつけて騒いでいるのである)。
ところで、平均、普通、均質、手順に沿った再現性、こういったことに特化して強いものがある。そう、コンピューターである。ロボットの大得意分野である。計算速度が最もわかりやすいが、人間の処理速度の比ではない。こういう答えのある作業系能力が必要な職業は、すべてロボットが代替するようになる。
そう考えるとやはり、ここで学校が子どもに育てるべきは「変さ値」の尊重である。どんなに「普通」に近づいても、ロボット以下ということになる。ロボットではなく人間である以上、その特徴が欲しい。「変」はマイナスにも捉えられるが、唯一無二の最強の武器にもなり得る。
例えばわかりやすい例として、声。「声が変」という理由でいじめられた、という経験のある人は結構いる。一方で、その経験を乗り越え、その天から与えられた声を最強の武器にして、世に大きく出た人たちは多い。例えば、元ドラえもんの声優の大山のぶ代。例えば、歌手の大塚愛。
よくよく考えれば、声優や歌手が「普通」の声では、需要がない。「変」=平均とはかけ離れているからこそ、唯一無二になる。
そして自分の「変さ値」を認めてもらうには、仲間の「変さ値」も認めないといけない。「変」が、排除の対象にならない。むしろ、個性として歓迎される集団を育てるような教育が大切である。
学力状況調査の勝手なランキング。わかるのだが、いい加減に下らないことは止めないかい、と言いたい昨今である。
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