仕組みの問題ではない人間の問題
どんなに良い仕組みを作っても、それを運用する人間がその仕組みを使う気がなければ、宝の持ち腐れになる。
そもそも、いじめ防止対策推進法は専門家の間では、まだまだ不十分だと言われているが、それでも私は、なかった時よりは随分マシになったと感じている。
また、やる気がない公務員であっても、法やガイドラインがある以上は、それに嫌々ながらも従うということはあっても、無視したり平気な顔で破るということはあまりなかった。
ところが、北杜市教育委員会のように、体裁だけを取り繕って、その実、平気でガイドラインを破ったり、情報操作をすることで被害者をまるで悪者にしたりする組織的な対応は、事実として起きたのである。
政治は仕組みや制度を作り、メディアはそれを報じて、現場を知らない評論家にそれを評価させる。テストの正答評価で教育を受けた賢い人々は、それを見聞きして、現実がどうなっているかも知らずに、社会的な信用を与えてしまう。
ところが制度や仕組みは必ず穴があり、現実は見せ掛けの運用がされてしまうケースもある。
いじめ問題はまさにその典型で、学校側や教育委員会側がいいように仕組みの穴を掻い潜り、被害者を貶めてしまうのだ。
素晴らしい仕組みを持ち、それに対しての予算もある教育委員会もある。しかし、それを運用するのは人なのだ。人がうまく機能しなかったり、そもそもいじめ対策に消極的否定的であれば、どんなに素晴らしい仕組みを作り、しっかりとした予算があっても不毛になってしまうのだ。
だから、我々がいるのだが、本当にそれでいいのだろうか。
私は社会的インフラでも社会的に保障されるような立場でもなく、言ってしまえば何者でもない。権能も権限もない一般人と何も変わりはない存在なのだ。そんな者に、この重要な場面を任せていいわけはないし、私としても荷が重すぎるのだ。
できれば、いじめ問題に利害のある教育委員会が常設委員を作るのではなく、市民の代表たる議会が、教育委員会の不当な対応をも範囲に含めた監視のための機能を持つ委員会を設置することが望ましいと思うのだ。
今回のような北杜市教育委員会の横暴は絶対に許してはならないし第二の被害者でないようにするために、是非とも政治には政局をいたずらに引き延ばすのではなく、子供たちをいじめから解放するためにも知恵を絞ってほしい。
編集後記
権力に巣食うものはしぶといものですが、最後は潔さも必要です。
今回、第三者委員会の面々には苦渋の決断をさせてしまいましたが、マトモな判断をしてくれたことで、ここでの正義は1つは守られたと感じました。
できることならば、市議会にはこの責任をしっかりと追及するとともに、被害者や第三者委員会の意見に基づいて、暫定的にでも速やかに新たな第三者委員会を設置するように監督するように求めたいところです。
そして、中立公平な委員によって、いじめの調査や自殺未遂に関する原因追求が直ちに行われることを願います。私は本件を被害側の要請に応じ、調査対策をしてきましたが、私にできることがあれば本件については協力を惜しみません。
やっとスタートラインに戻ることができた北杜市いじめ自殺未遂および市教育委員会よる不適切対応事件、これからはスムーズに進み、1日も早い被害救済がなされることを期待しています。
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