一休は後小松天皇の落胤と言われている。というより、折に触れ自分からそうほのめかしている向きがある。真偽の程はともかく、一休にとってはそこに出自を定めたということが重要だったのであろう。幼少の頃から秀才の誉れ高く、こと漢詩の才能は抜群で都で噂になる程であった。
ところが、前述の自殺未遂辺りから禅僧でありながら、酒は飲む、肉は食う、女は抱く、そしてついでに男も抱く、といった感じで、まさしく「風狂」そのものであった。しかも数えて七十八歳という人生の最晩年にして森女(しんじょ)という名の若い盲目の女との愛欲に耽溺し、剰え『題淫坊(淫坊に題す)』という漢詩まで詠んでみせている。
この、人生と書と「風狂」とを重ねてみる時、一休は決して壊れて行ったのではなく、壊して行ったのだということが分かる。崩れて行ったのではなく、崩して行ったのだということが分かる。一休にとって、中国から伝わった「風狂」の境涯はまさしく「悟り」そのものであったのだ。
遺文や伝承の類を含め、一休の言行には人間存在の理由を死に求めているものが実に多い。その一休は八十八歳まで生き、森女に抱かれながら息を引き取ったと言う。最期の言葉は「死にたくない」であった。一休に言わせれば、これも「風狂」なのかもしれない。
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