「みんな一緒」は悪いのか。ある中学の、子供を救い続ける試み

 

ここで、考えてみよう。外見が「みんな一緒である」ということ自体が悪いということではない。どのような考え方や思いが、どういう形で現れれば、多くの人、みんなが幸福になるのかということを考えてみたい。

ソーシャル・インクルージョン、「社会的包摂しゃかいてきほうせつ)」という言葉がある。社会的に弱い立場にある人々をも含めて、ひとりひとりを、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会の一員として受け入れ支えあうということである。

具体的な事例で「社会的包摂」を説明したい。ある地方都市の、低所得者層の多い地域にH中学校がある。ここは、経済的に困窮する母子家庭も多く、3年生の修学旅行をだれもが楽しみにしている。なにしろ、東京ディズニーランドに行ったことがなく、ほぼ全員が、修学旅行で初めて、新幹線に乗る経験をする子どもたちだ。

この学校には、家庭内暴力から逃れて母子で密かに転校してきたという生徒も珍しくない。転校してきた子は制服が必要となる。他の都市で着ていた制服を着て登校するにはリスクもある。中学2年生や、あと少しで卒業という生徒に新品の高い制服を買うお金が無いことで結果的に不登校を誘発してしまうという残念な出来事も経験してきた先生たちである。教師たちは経験を積み、どうしたら一番良い方法かをあみだしていた。これまで、日頃から卒業する学生たち、特に弟妹たちに制服を譲らなくてよい生徒と親に担任が声をかけ、中古の制服をPTAのお母さん方で集めているのである。さまざまなサイズが必要だ。体操服やカバン学校グッズも集めている。

転校すると、担任や学年主任、教務主任までも、優しく声をかける。「PTAがリサイクル活動をしていますので、利用してみませんか。見るだけでもいいから」と小さな保管部屋に案内する。お母さんも新品同然の制服を見て「結構、きれいにそろっていますね。全然、傷んでいませんね」と、驚くという。なにしろPTAの方々が心を込めて、裁縫し修繕し、洗濯、アイロンがけ、糊付けをしているからだ。800円、500円、300円の中古の制服、100円の値札がついたグッズが並んでいる。先生は生徒に声がけする。「自分の小遣いで買えるよね」。そのとき、にっこりする生徒も多いという。

自分の力で購入してもらうことはとても大切なことである。無償で与えることは人間を堕落させる。「無料でもらって当たり前」は、いずれ未来に羽ばたく子どもたちに与える教育として、決してふさわしいものではない。「自助努力の精神を教えなければ、人間の尊厳を奪うことになるからだ。貧困の連鎖を断ち切るには、努力という汗を流さねば、それが為されることがない。

それだけではない。わずかな資金でも、買っていただけることで修繕費用が生み出され事業経営を永続的にまわすことができる。PTAもリサイクル活動費を寄付金に頼る必要がない

翌朝、「みんなと一緒」の制服を着て、同じバッグを持って、転校生は元気に登校してきた。朝の校門で、先生とかわす「おはよう」の挨拶は美しく輝いていた。

このように、「みんなと一緒」という意味では、卒業式の袴も、中学校の制服も同じように見える。しかし、「同調圧力のありようと社会的包摂のありようは全く異なっている。前者は、自己保身の心があり、人間を上下で考え、異なる人を見下したりする、そこには「人と違うことは許さない」という気もちが隠れている。後者は、学生のために何ができるかを必死に考え、無私なる心で実行し、多くの人を巻き込んで事業としているし、何より、中学生自身が喜んでいる。向いている心の針の方向が全く反対だ。

print
いま読まれてます

  • 「みんな一緒」は悪いのか。ある中学の、子供を救い続ける試み
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け