信長は奇跡に賭け、秀吉は全てを賭け、家康は敗戦姿を描かせた話

 

秀吉の大返し

信長の訃報を聞いてから播州姫路城までの、移動距離一日70キロという恐るべきスピードでの大強行軍である。この後、山崎合戦で見事明智光秀を討ち果たし、信長の後継者としての地位を確立したのは周知のことである。

しかし、大返しの最大のオペレーションは姫路城内で行われた。秀吉は、金蔵、米蔵を開放し全財産を将兵に分配したのである。秀吉にしてみれば、光秀を討てばその先には天下がある訳だから財産など思いのままである。それに、負ければ首が飛ぶから財産など持っていても仕方がない。この極めて単純かつ合理的な判断が戦の命運を左右したと言っても過言ではない。

このことを将兵の側から見れば、姫路籠城作戦という選択肢はなく、出撃しかあり得ないことが分かるし、秀吉がこの弔い合戦に不退転の決意であることもよく伝わる。また、戦を前にこの気前良さならば、戦働き如何では戦後莫大な恩賞が期待できると思ったに違いない。さらに主君の敵を取ること以外には何も望まないといった意志が揺るぎない大義として秀吉を正当化することにもなる訳である。

結果、軍を東進させるほどに軍勢は大きくなって終に山崎での決戦となるのである。秀吉はこの時に賭けた。そして、賭けるなら全てを賭けなければならないということをも知っていた。秀吉の天下は中国大返し姫路城内で決まったのである。

家康の三方ヶ原

血気にはやった家康が武田信玄に野戦で挑み、散々に叩きのめされた戦である。脱糞までして命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、この大敗が弓取りとしてのトラウマにならぬよう最善最速のケアをする。

絵師を呼んで所謂「顰み像」を描かせ、その日の恐怖を心に常駐させ、それをコントロールすることを脳に覚えさせた。また、赤備えの山県昌景隊に対する恐怖の記憶は、武田氏滅亡後、徳川四天王井伊直政に山県隊遺臣を配属し、そのまま赤備えも踏襲させることで丸々食い取った

家康はこの合戦で、敗北の克服の仕方を学んだ。負けても猶、武人としての心を守る方法を身に着けた。以後、家康が野戦で負けることは一度もなかった

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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