なぜ豊臣秀吉は現在の大阪に政権の基盤となる城を築いたのか?

 

豊臣大坂城と徳川大坂城

豊臣政権は西国政権である。その政権内において毛利家の存在は実に大きかった。豊臣五大老のうち二人(毛利輝元・小早川隆景)が毛利家である。つまり、本願寺跡に拠を置き中国毛利からの後援を受けるというのが、この時代の最強防衛ラインであったのである。勿論、秀吉のそれは本願寺のスケールとは較べようもないくらいに巨大であった。

さらに港を開き、堺の商人を多く移住させた。これにより大坂城下は貿易都市としても発展し、併せて信長時代は半従状態であった堺の町は骨抜きになった。

こうして、中世末期の宗教都市と自治都市を飲み込んで近世大坂の町は造られたのである。ここに平城を中心とする、軍事、政治、経済都市としての近世城下町が一つの極相を迎えた。近世大名の秀吉にとって軍事、政治、経済は最早不可分であったのである。

この秀吉の大坂は、新たに造成した商業地や住宅地や港湾部をも抱き込んだ、惣構えであった。三国無双のこの城下町の繁栄は大坂の役まで続いた。豊臣氏と言えば、秀吉の死後あっという間に滅んだ感があるが、関ヶ原の役後も、摂河泉六十五万石の大大名であった訳だから、大坂城天守の雄姿は少なくとも30年間は仰ぎ見ることが出来たことになる。

東京都庁で25年だから、30年ともなれば結構馴染み深かった筈である。それが、大坂の役で灰燼に帰すこととなったのである。冬の陣後、家康によって外堀だけでなく、内堀までも埋められた話は有名だが、そのやり方についてはあまり知られていない。櫓や塀を壊して埋める、武器や武具を埋める、挙句には人の身体も刻んで入れるなど、苛烈を極めた。

無勢の大坂方に対して和睦となった冬の陣は、家康にとって余程の屈辱だったに違いない。夏の陣前後のこの無差別な仕打ちは尋常ではなく、豊臣氏の造った大坂は、それを記憶する人間諸共にこの世から消し去ってしまえと言わんばかりである。

大坂の役後、徹底的に破却した豊臣大坂城の上にまるごとドカッとのっけるように建てられたのが徳川大坂城である。今に残る大坂城はこの江戸期の縄張りである。皮肉なことだが、この徳川大坂城も幕末にその主の政権の終焉を告げる場となった。十四代家茂はこの城で病没し、十五代慶喜はこの城で鳥羽伏見の戦いでの自軍の苦戦を聞き這う這うの体で江戸へ逃亡した。

思えば、江戸の初めと江戸の終り、実に250年の時を隔てても、この大坂の城は決して戦では落ちなかった。その城の実力を信じ切れなかった主が自滅しただけであった。この城下町大阪で復興天守第一号の「大阪城」を見るたびにふとそんなことを思ったりなどする。

image by: Jmho at ja.wikipedia [CC0], via Wikimedia Commons

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ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

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