【カンブリア宮殿】なぜ串カツ田中は倒産危機から復活できたのか?

 

倒産危機から奇跡の復活劇~失敗を糧にサバイバル

しかし、土壇場で奇跡が起こる。どん底から抜け出すきっかけを作ったのが副社長の田中だった。創業メンバーの田中は、危機に陥る前から何度も、貫に「串カツをやりましょう。東京にないからはやりますよ」と、進言していた。

田中が串カツに可能性を感じていたのには理由があった。彼女は串カツ文化のど真ん中、大阪の西成出身。忘れられない味が、今は亡き父親・勇吉がソースから手作りしてくれた串カツだった。田中の舌の記憶を頼りに、試作を重ねた。

だが、「試食もいっぱいしたのですが、全然おいしくない。串を打ってパン粉をつけて揚げただけの串カツで、さすがにこれはお客には出せない。商売にならない、と」(貫)

ところがあるとき、田中が荷物を整理していたら、父親の串カツのレシピが出てきた。ソースのことまで細かく書かれていたそのレシピ通りに作ってみると、父親が作ってくれた串カツの味になった。

貫はこの串カツで最後の勝負に出ようと決める。ただし、手元の資金は尽きていた。金策に走り、新たに350万円を借金。今までのような一等地への出店は諦め、家賃の安かった住宅街の物件を借りた。それは以前、スナックだった14坪の居抜き物件。改装には、ほとんどお金をかけられず、テーブルは手作り。椅子はもらった酒のケースにスポンジを貼ったものだった。厨房機器はネットオークションで安かった物を購入。そして、田中の亡き父のレシピに敬意を表し、串カツ田中と名付けた。
「当初、若めの1人暮らしの人をターゲットにしました。でも、不安で、不安で……」(貫)

いざ店を開いてみると嬉しい誤算が。近くに住んでいた子供連れのファミリーが押し寄せたのだ。東京では珍しかった大阪スタイルの串カツが子供にも受け、2ヶ月で出店費用を回収した。

手応えを感じた貫は「家族が幸せになれる店を目指そう」と決める。そして無料ソフトクリームを始め、小さな子供が喜ぶ仕掛けや、「おこさまプレート」(390円)のようなメニューを次々と開発していった。家族向けには、客が自ら握る「田中のおにぎり」(480円)のようなメニューもある。

「家族が幸せになれる店」は大当たり。オープンから2年後の2010年2月には2号店の東京・尾山台店を、同10月には3号店の東京・都立大店と出店。以後も店を増やし続け、今ではハワイやシンガポールを含む200店舗のチェーンに成長させた。

勢いに乗る貫だが、社員が全員辞めてしまった過去の苦い経験も忘れていない。貫は年に1回、257人の社員全員と面談。希望や不満を聞き出している。さらに一人一人のモチベーションを上げてもらおうと、表彰や賞品の授与まで行っている。今年の春には、東京・日本橋に新入社員のための串カツ田中小伝馬町研修センター店をオープンさせた。

一見、他の店と変わらないように見えるが、「全て新入社員で構成されております」(研修センター長・石川一希)と言う。ここで1カ月、仕事をみっちり教えてから店舗に配属するのだ新人研修の場ということで、この店はすべてのドリンクが破格の200円。「元気があっていい」「自分の1年目の頃を思い出す」と、客からも好評だ。絶対絶命の危機を乗り越え、過去の失敗も糧にして、貫は串カツ田中を作ったのだ。

串カツ田中_04

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