【カンブリア宮殿】なぜ串カツ田中は倒産危機から復活できたのか?

 

夢は1000店舗の串カツ店~串カツ田中が生まれるまで

高級店が軒を連ねる大阪・北新地に、貫が串カツの研究のために食べに来る店がある。8年連続でミシュランの星を獲得しているという串カツの名店、「串かつ凡」だ。

ウニやキャビアなどの高級食材を使い独創的な逸品に仕上げている。ズッキーニの串カツは、大根おろしを上に載せ、さらにフォアグラも。食材が豪華なだけではない。その味わいを生かす技術も秀逸だ。
「フォアグラって油っこいでしょう。揚げ物と油っこい素材というのは普通は合わない。でもうまく仕上がっている」(貫)

貫の隣にいる副社長の田中洋江は、串カツ田中の味に大きく関わる商品開発の責任者だ。
「串カツ田中のものをこうしようと思っているわけではないですが、やはりいろいろなことを知っておくほうがいいと思う」(田中)

串カツの誕生は90年前までさかのぼる。最初は通天閣のお膝元、大阪・新世界の飲食店で、お金のない肉体労働者のために考え出されたという。具材は薄くても、衣やソースでカロリーがとれるようにというアイデア料理だったのだ。新世界には現在も70軒もの串カツ屋さんが集まり、味と安さを競っている。

そんな大阪庶民のソウルフードとも言える串カツ文化で、貫は全国に打って出た。しかし、その成功の影には山のような失敗もあった。

1971年、貫は大阪の町工場の二男として誕生。高校を出るとトヨタグループの物流部門、トヨタ輸送に入社する。だが、仕事に面白さを感じられず、趣味で始めたイベント企画にのめりこむ。
「バーベキューに100人ぐらい連れて行ったり、スノーボードに50人ぐらい連れて行ったり。すごく楽しくて、サービス業がいいなと思っていました」(貫)

人を楽しませる仕事がしたいと27歳で脱サラ。大阪の心斎橋でショットバーを開業、3年後にはデザイナーズレストランをオープン。起業して会社組織にすると、さらに拡大を目指して2004年には東京にも進出。表参道の一等地に京懐石の高級店を開いた。

ところが、行き当たりばったりのワンマン経営から次第に社員の心は離れ、予期せぬ事態も起きた。
「社員が全員、辞めました。自分のエゴで会社を作ってきたので、社員はなんとなく働いて、なんとなく私に怒られて、という感じだったと思う」(貫)

去っていった社員を見返してやろうと必死に働いたが、そんな時に起きたのが2008年のリーマンショック。高級志向の店には閑古鳥が鳴き、膨らんだ借金は7000万円に。倒産目前となった。
「常にキャッシュがギリギリの状態。半年もたないなというところまでいきました」(貫)

串カツ田中_03

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