ドッジボールは、単純なルールやさまざまな人数に対応できる柔軟さもあって、子どもが気軽に楽しめる球技として親しまれています。しかし現役教師の松尾英明さんは、ある帰国子女の問いかけからドッジボールに疑問を抱くようになったといいます。そんな松尾さんが今回、無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』で、「ドッジボールは教育上是か非か」を考察します。
ドッジボールは是か非か
「丁寧」や「穏やか」「思いやり」といったことについて。
突然だが、読者の皆様は、ドッジボールを好きだろうか。私は、子ども時代からずっと好きだった。すばしこい上に、投げる力が強く、バシバシ当てることができたからである。
さて、ここに「強者の理論」が入っている。どんどん当てられるから楽しい。これは、ごく一部の子どもであり、学級の10%程度である。多くは、「時々投げるチャンスが来ることがある」という程度である。または「当たりたくないからずっと外野」という超消極的参加の子どももいる。
実際に学級担任を長年やってきて、ドッジボールは休み時間の定番遊びの一つであった。
しかしである。
体育で行ったことは、ほとんどない(ほとんど、というのは、遊びの応用に使えるように、王様ドッジなどの方法を単発で教えたことがある)。なぜかというと、この運動に次の運動への発展性がないからである。「ゴール型」「ネット型」「ベースボール型」のいずれにも当てはまらない。「動く人間を的にして当てる」という運動が、ドッジボール以外にないからである。
よくよく考えると、これは、狩猟に似た遊びである。逃げる獲物を狙いすまして撃ち落とす。古来から世界各国で行われている辺り、人間が本能的に好む遊びであると思われる。
しかしながら、これを学校教育で行うべきかというと、甚だ疑問である。学校で育てるべきは「本能」ではなく、「思いやり」や「丁寧さ」という社会で生きる力である。ドッジボールで育つ力は、はっきりいって、真逆である。
最近は、これを電子空間上で行う取り組みも出てきた。実際のボールが当たる訳ではないので、身体的な痛さがないのがいい。ただ、人間を的にするという基本は同じである。ゲームとしては有り得ると思うが、体育としていいかどうかは、正直まだわからない。ただ、間違いなく一つの新しいエンターテインメントにはなりそうである。
そういう中での譲り合いを学ばせる、という意図も、あるにはある。しかし、実際は、強者が弱者に譲るだけで、他の学習のような学び合いにはならないというのが実際である。
実はこれを考えたきっかけは、外国の学校で学んできた子どもたちが「何なのこれは?」と言ったということを聞いたのがきっかけである。やったことがなかったらしい。そして、「なぜ人にボールを当てていいのか」が理解できなかったらしい(他のことでは、明らかにダメな行為であるので、ある意味当然である)。
小学生のドッジボールは是か非か。最近、ここに色々な説が入ってきているようで、なかなかホットな話題である。私は単純に自分が好きだからやっていたが、ここ数年は考えさせられている。とりあえず、今はやらずに考えておこうかというところである。
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