安倍首相のお気に入りは、だいたい人物像が共通している。黒を白と言ってでも強引にコトを進めてゆくタイプだ。法務事務次官は法務・検察のなかでの序列としては、検事総長、次長検事、検事長よりも下位だが、黒川氏は官邸との距離の近さを強みに剛腕をふるってきたのではないだろうか。
それゆえにこそ、官邸サイドが黒川氏を事務次官に指名するにあたり「任期は1年」と約束していたにも関わらず、次官ポスト待ちの林眞琴氏を名古屋高検検事長に出してまで、2年4か月も黒川氏を次官に居座らせたのに違いない。
黒川氏が昨年1月、東京高検検事長になったことで東京地検特捜部は官邸のくびきから脱したのか、これまでのうっ憤を晴らすかのような動きを始めた。敏腕で鳴らす森本宏特捜部長のもと、IR事業をめぐる汚職事件で約10年ぶりに現職国会議員の逮捕に踏み切った背景には、そうした事情の変化もあった。黒川氏が法務省を取り仕切っていたら、どうなっていただろうか。
定年が迫りつつあった黒川氏。安倍官邸は検察対応のキーパーソンを失いたくなかった。検察庁法によると、検事総長以外の検察官は63歳に達したなら退官することになっている。とすれば、1957年2月8日生まれの黒川氏の退官日は、今年2月8日であった。
一方、検事総長の退官は65歳に達したときだ。2018年7月から検事総長をつとめる稲田伸夫氏は1956年8月14日生まれなので、定年は21年8月14日。まだまだ先である。
安倍首相と官邸の面々は、黒川氏を法務・検察組織に留め置くための秘策を練った。いちばん手っ取り早いのは現検事総長の稲田氏が退任し、黒川氏が定年に達する前に、検事総長の座を明け渡してくれることだ。検事総長は後任者を自ら指名するのが慣例だ。
そこで、昨年末から稲田検事総長に退任するよう説得してきたが、稲田氏が頑として応じなかったという。
そうこうしているうちに、黒川氏の63歳到達日が迫ってきた。検察庁法を守るなら、もう時間切れだ。“禁じ手”しか残されていない。今年1月31日の閣議で、黒川東京高検検事長の勤務を8月7日までとすることを決めたいきさつは、そんなところだ。
「重大かつ複雑、困難な事件の捜査、公判に対応するため黒川氏の経験が不可欠」と森雅子法務大臣は述べたが、理由の説明になっていない。
国会では渡辺周議員の「検察庁法の脱法行為ではないか」との質問に森法務大臣はこう答えた。
「検察庁法は国家公務員法の特別法にあたる。検察庁法には勤務延長の規定がない。特別法に書いていないことは国家公務員法が適用される」
詭弁としか言いようがない。検察庁法には、検事総長以外の検察官は「年齢が六十三年に達した時に退官する」となっている。そのまま受け取れば、非常にシンプルである。
ところが、森法相は検察庁法に定年延長する場合の決まりが書いてないから国家公務員法を適用するというのだ。
検察庁法をふつうに読めば、63歳に達したら、定年延長することなく退官するものとして書いてある。人の一生を左右するほどの大きな権限を持つ検察官だからこそ、厳しい年齢規定がある。
安倍官邸にかかれば、常識はいともたやすく覆されてしまう。理屈になっていない理屈を恥かしげもなく振りまわし、これまで何度、強行突破を重ねてきたことか。
検事総長の任命権者は内閣である。しかし、内閣からの独立性を保つため、これまでは検事総長が後任者を指名し禅譲してきた。歴代の内閣には、それを是とする寛容さと良識があった。
法務・検察組織内部で、順当な次期検事総長候補が今年7月30日に満63歳となる林眞琴氏ということは衆目の一致するところらしい。稲田検事総長は林氏の誕生日前に退任し、林氏にバトンタッチする腹づもりと思われるが、そうは問屋が卸さないとばかりに、安倍官邸は黒川氏の定年延長カードを切ってきた。任命権者は内閣であることを振りかざし、官邸は稲田氏に圧力をかけるだろう。
これでは、検事総長さえも、時の政権の都合のいい人物を配置するという悪しき前例を政治史に残すことになる。