当初、『思考の整理学』を読んだときは、そのような手間のかかる作業は、アナログツールゆえの不便さだと認識してしました。ページ数に限界があるから、選りすぐったものだけを選抜しなければいけない。ページが無限にあるデジタルノートなら、そのような選別から解放される。そんな風にデジタルツールに夢を見ていたのです。
しかし、10年ほどのデジタルツール経験と、「バレットジャーナル」が示した哲学から、その認識は非常に狭いものだったと思い至りました。「捨てること」は、想像以上に大切なのです。特に、「思いつき」のような大量発生するものならなおさらです。
梅棹忠夫さんは、着想(ひらめき)というものを、宇宙線と脳との交差として比喩されました。
宇宙線は、天空のどこかから、たえず地球上にふりそそいでいて、だれの大脳をも貫通しているはずだ。したがって、「発見」はだれにでもおこっているはずである。それはしかし、瞬間的にきえてしまうものだ。そのまま、きえるにまかせるか、あるいはそれをとらえて、自分の思想の素材にまでそだてあげるかは、そのひとが、「ウィルソンの霧箱」のような装置をもっているかどうかにかかっている。
私たちの脳は、常に情報処理しています。その質がどうあれ、何かを常に「思いついて」いるのです。でも、それはすぐに消えてしまう。だから、自分が「思いついて」いるなんてことも気がつかずにいる。よって、「ウィルソンの霧箱」のような観測装置(記録装置)を持つか持たないかで、その人が「思いつき」を育てていけるかどうかが決まってくる。そういう話です。
現代の私たちは、超高性能な霧箱を獲得しました。なんでも即座にメモし、必要とあれば写真に撮り、それをどんな端末からでも確認できる環境を得たのです。結果として、大量の「思いつき」を保存できるようになりました。それこそ、人間の脳では扱いきれないくらいの情報(記録)を残せるようになったのです。
考えてもみてください。一日10個のメモを残せるなら、一年間で3650個のメモが生まれます。それを10年続ければ、36500個。それだけのアイデアがあったところで、そのすべてを見返すことは不可能です。一つを2秒で見返していっても、20時間かかります。とても、そんなことを「折に触れて」行うことはできません。
結果それらのアイデアは、自分の脳にロードされることはなく、「あってもなかっても同じ」状況になります。にも関わらず、検索結果などでは表示され、メモリを消費したり、ノイズを発生させるのです。良いことは小さく、良くないことが増えるのです。だからこそ、アナログツール時代に培われてきた「大切なものだけをピックアップし、その他は流れるにまかせる」という方針の必要性が高まっています。
ただし、単純に「捨てればいい」という話にもなりません。それは、以前にも触れたように、あまりにも多いものは、捨てるにも手数がかかるからです。デジタルツールでは、この点を検討していく必要があります。
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