ヤクザまがいの言いがかりも。麻生氏が岸田氏を支援しなかった訳

 

池田勇人、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一。保守本流といわれ、4人の総理大臣を輩出した「宏池会」は2000年11月のいわゆる「加藤の乱」をきっかけに谷垣禎一氏らのグループと、古賀誠氏らのグループに分裂した。これが、絶えて久しく宏池会から総理が出ない原因となった。

一方、麻生氏は前年の1999年1月、長年慣れ親しんだ宏池会を離脱、河野グループの旗揚げに参加していた。宮澤喜一から加藤紘一に宏池会会長の地位が譲られたことに不満があったのだろう。

その後、2008年に谷垣派と古賀派は合流し「中宏池会」が誕生したが、2012年の総裁選で、古賀氏が谷垣再選を支持しなかったため、谷垣派は再び、宏池会を離脱した。

かつて日本の政治は国力重視の「清和会」(現・細田派)に対し、リベラルな保守勢力「宏池会」が拮抗していたからこそ、自由闊達な論争が行われた。そういう土壌が保たれていれば、安倍官邸が政治権力を我が物顔で振り回すことなどできなかっただろう。

加藤の乱の後、岸田氏は古賀氏と行動をともにし、2012年10月、古賀氏から宏池会の会長を引き継いだ。古賀氏は名誉会長となって、隠然たる影響力を保持したが、名門派閥の領袖となった岸田氏は、誰が見ても自民党のホープだった。

麻生氏は河野グループを継承し、「為公会」を立ち上げた。2006年12月のことだ。宏池会から河野グループに移っていた河野太郎氏も、そのまま「為公会」のメンバーとなった。

麻生派、岸田派、谷垣派。いずれも「宏池会」に源流がある。その三派が合流する「大宏池会構想」を言い出したのは麻生氏なのに、古賀誠氏の名を出してまで、岸田氏を突き放した。そこには、麻生派の事情がからんでいる。

自派閥の河野太郎氏が総裁選に出る素振りを見せたとき、麻生氏は押しとどめた。菅支持で主要派閥がまとまりそうだったからだろうが、もし仮に、麻生氏が将来を見据え、河野氏を育てるつもりがあるのなら出馬を後押しする手があったはずだ。

また「大宏池会構想」を本気で考えているとすれば、3人の候補者のなかでは岸田氏を推すべきだろう。岸田氏は「大宏池会構想」に前向きだし、古賀氏とて、麻生氏と手を組むことを拒絶してはいない。それなのに、麻生氏は古賀氏を嫌い、「宏池会」から古賀氏に手を引かせるよう岸田氏に求めている。

麻生太郎という人物は、よほど権力闘争が好きとみえ、どこにいても親分でありたいのだ。もちろん、自民党福岡県連においてもだが、県連には引退したはずの古賀誠氏の影響力がいまだに根強く残っている。

麻生、古賀の対立が如実に表れたのが、2019年の参院選だ。改選を迎える自民現職は松山政司・前一億総活躍相ただ一人だったが、麻生氏は改選数3に対し、自民党は2人立てるべきだと主張したのである。1人なら勝利は確実だが、2人となれば難しい。

理由はただ一つ。子分が別の親分になびいたからだ。つまり、松山氏は青年会議所つながりで麻生氏の「直系」といわれたほどだったのに、2001年の参院選に初出馬したさい、直前まで自民党幹事長として権勢をふるっていた古賀氏を頼って当選を果たした。これをいつまでも根に持つところが、いかにも麻生氏らしい。それから18年後の参院選にまで松山氏への感情が持ち越されたわけだ。

もちろん、2人擁立の話は立ち消えになった。公明党が黙っていなかったのだ。自民党が公明党の新人に推薦を出すことを、甘利明自民党選対委員長が公明党の佐藤茂樹選対委員長に約束した。甘利氏は麻生派幹部だが、感情に走る麻生氏の身勝手なふるまいをそのまま通しては、戦略的にものごとが進まないのを、よくわかっていた。

麻生氏は面目丸つぶれだ。派内でも、実のところは麻生氏の威光に陰りが見え始めていることがよくわかる。

print
いま読まれてます

  • ヤクザまがいの言いがかりも。麻生氏が岸田氏を支援しなかった訳
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け