ボクが貿易会社に就職すると、親父がある日……
僕には一生の謎がひとつある。あれは大学を卒業し、東京の貿易商社に勤めはじめてしばらくたった頃だった。久しぶりに京都の実家に戻り、何気無く家の庭に出ると、親父とばったり会ってしまって。ほとんど会話のなかった親子だったから、何やら気恥ずかしくて。親父も多分、そんな気持ちだったと思う。
「兄ちゃん」親父が僕に話しかけてきた。親父は長男の僕をそう呼んでいた。「兄ちゃん、今の仕事、面白いかい?」僕は芸能界に入ることを考えたこともなかったし、ふつうの会社に就職して毎日の仕事が面白かったから、「はい、楽しいですよ」と、答えました。
すると、親父は次の言葉を発するのに、ちょっと間をあけた。昔の男は表情を変えるようなことはあまりしない。親父もそうだった。だからあの時、何を考えているのか、親父の顔から察することはできなかったが、親父が次に発した言葉は今もはっきりと覚えている。「おう、そうかい、それはよかったな」
親父は多分、板妻としての名声を長男の僕に継いでほしかったに違いない。長男が家督を継ぐ、昔の男はそう考えたものだが、親父は同時に子供に対して何かを強制することはしてはいけないと、自分にタガをかけたのだろう。
家長には絶対に服従という家に僕は育った。それは日本人の美徳と称せられる面もあった。仮に、「高廣、長男のおまえが阪妻を継げ」と言われたら、嫌も応も関係ない。僕は自分の意志や自分の人生の目的とは関係なく、親父の後を継いでいたかもしれない。親父にはそれがわかっていた。だから、子供に何かを強制するようなことはしなかったのだ。
親父が51歳で急逝したのは、庭で話をしてからしばらくたった頃だった。お金を貯める役者さんもいるが、板妻はそういう役者ではなかった。稼いだお金はすべて映画につぎ込んでいた。映画界にはまったく興味がなかった僕だが、勤めている商社を辞めて松竹に入るなら、親父の松竹への借金は、帳消しにしてもいいという、大変結構なお話ももらった。
小さかった弟たちを養うのは長男の義務だ。1万円にも満たない当時の貿易商社の給料では、とても家計のやりくりはできなかった。「実はお父さんは、“映画俳優になれとは言わないが、長男の高廣がプロデューサーのような立場でも、映画の世界で仕事をしてくれないかな”と、言っていたんですよ」それは長年、親父のそばについていた番頭さんのような人から聞いた話だ。
──ああ、お父さんはそう思っていたのか。家の庭で話をしたあの時、仮に僕が、「いや、安い給料で働かされて貿易商社なんかに入って、えらいことしたなと思ってます」と、応えたら親父の反応はどうだっただろう。「そうか、どうだい高廣、実はな──」と、映画界に入る話を持ち出したかもしれない。でも、僕が社会人になって会社の仕事を喜んでやっている姿を目にして、──ああ、そうか、それなら高廣の好きにさせよう。親父はそう思ったに違いない。
あの時の親父のちょっとの間──、あれは子供の好きにさせようという決断の時間だったのではないか。番頭さんのような人の親父の逸話も、急逝した親父の遺志のようなものが見え隠れして、芸能界に飛び込む僕の背中を押した。
今、東京の我が家には親父の写真が二枚飾ってある。一枚は素顔でこちらを見て微笑む父、田村伝吉の写真。もう一枚は国定忠治に扮している阪東妻三郎の写真だ。両方とも、僕の親父である。写真の中の阪妻は横を向いている。それはあたかも、こう言っているように思えるのだ。「そうか、役者になったのか、でもね、おまえさん、国定忠治をやるには、まだまだだよ」と。(ビッグコミックオリジナル2000年5月5日号掲載)
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