故 田村正和の長兄・高廣が語った、父・阪東妻三郎との秘話

 

庭の片隅で台本を燃やす親父の姿

なぜ僕がそんな確信を持つかといえば、我が家はみんな想像するスターの家とは真逆で、家長の親父を先頭に本当に慎ましい生活をしていたから。普段、家の中で親父と触れ合うことはほとんどなかったのだけど、毎年夏休みには家族そろって京都府の日本海側の天橋立の方に海水浴に行った。振り返ると、それが親父と接する唯一の機会だった。

普段は僕らと話もせずに、家の奥の部屋にいる親父だが、海水浴では僕らよりもはしゃいでいたんじゃないか。あのときの親父の大きな背中、そして笑顔は今もフィルムに残っている。それは家にあった16ミリのキャメラで僕が撮影したものだ。子供ながらに家族の中でいちばん楽しんでいる親父の姿が不思議だった。多分、いつも映画のことで頭がいっぱいだった。そんな親父の遊びは限られていて、家族との海水浴は数少ない遊びの一つで、親父は家族との海水浴という遊びにも、一所懸命だったのだろう。

親父の情景でふと脳裏に浮かぶのは、庭の片隅でたき火をする姿だ。いったい何を燃やしているんだろう。子供心に不思議だった。「撮影が終わると、お父さんはああしていつも、台本を燃やしているんです」そう教えてくれたのは、オフクロだ。うちには親父が使った台本は、見事に一冊も残っていなかった。

親父は自分が演じる人物との出会いを大切にしていたのだ。ひたすらその人物を演じきることに集中していたに違いない。庭で台本を燃やす、それは撮影が終わっても、後ろ髪惹かれるその人物への思いを断ち切るため、役者としての一つの儀式だったに違いない。役柄との決別の潔さ、それは親父の役者としての親父の一つの美意識だったのだろう。

親父が出ている映画に僕は思わず大声を…

親父も自分が出た映画へのお客さんの反応を見たかったのだろう。だが、大スターバンツマが自ら映画館に足を運ぶわけにはいかない。そこで僕がオフクロのお供をして、京都の京極の映画館によく足を運んだ。そんなある時のことだ。映画館のスクリーンの中でチャンバラの立回りをしている親父が、後ろから悪いヤツに斬られそうになった。「お父さん危ない!後ろ見て!」僕は映画館の中で、つい大声で叫んだ。「あのときは私、恥ずかしかったよ」オフクロに、そう言われたことを覚えている。

僕は映画よりも、帰りに大丸デパートの食堂で食べる、ハンバーグ付きのお子様ランチが楽しみだった。家の中は質素だったし、親父もこれと言って派手なところもなかったし。大スター板妻といっても、それを意識することはほとんどなく、親父の仕事に関して僕は小さい頃からほとんど興味がなかった。阪妻の息子だと特別意識することなかったのは、活動写真の仕事に従事する人たちばかりが暮らす京都の太秦で育ったこともあった。

僕の中に“阪妻”はいない。家長として家族みんなが一目置いている親父という存在がいるだけだった。オフクロも“大スター阪妻の妻でございます”というところなど、微塵もない人だった。家長としての親父に尽くして。阪東妻三郎の妻の役割は心身共に大変だったに違いない。

寡黙なオフクロだった。目立つことをとにかく嫌った。オフクロの愛情を表わすのに、特筆すべきエピソードは僕の中にない。三度三度のご飯の支度や僕や弟が熱を出した時の看病とか、そういう日常の些細なことすべてにオフクロの愛情がにじみでていた気がする。オフクロは母親として、ごく当たり前のことを毎日変わらず、コンスタントに黙々と続けてきた、僕にはそのことがすごいと思える。多分、親父たちの時代はオフクロのような女性が、大多数を占めていたのだろう。

親父は51歳で急逝したが、オフクロは92歳まで生きた。親父が亡くなった後も、お弟子さんやみなさんに気を遣って。晩年も控えめな性格は変わらず、僕は年を取ったオフクロが純真無垢な童女のように見えた。

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