アイコラ写真をLINEで回し援交の噂を流す、卑劣ないじめ加害者たちの無反省

 

「いじめ」は加害者の責任である

私は何度も言ってきた。大半の専門家も私と同じ主張である。

いじめは、加害者の行為選択の末に起きていることである。

「仮に」加害者から見て被害者に何か落ち度があったり、何かむかつくことがあっても、いじめをするという行為を選択したのは加害者の責任なのだ。

ABC理論で考察しても、Aという「出来事」が生じ、それによってBという「受け止め方」があり、Cという「感情」が生じる。Bの「受け止め方」は固定観念や思い込みなどが影響するから、いじめ行為の選択は、このBに問題があるケースがあると言えるだろう。

加害者の多くは、このBの部分の主張を繰り返すことが多いが、それは事実ではなく、歪んだ解釈なのである。

さらに、「キレる」ような非合理的行動は一般社会で許容される範囲ではないから、出来事となるAからいきなりCの感情に作用するというのは、稚拙で心のありようが未熟であるといえるのだ。

一方、そのプロセスの中で「いじめをしない」という選択肢は必ずあるのであり、自らの行為に責任が生じるのは自然の道理でもある。

後悔し改心すれば、それはいずれ糧となろうが、そういう環境がないというのは不幸の極みなのかもしれない。

但し、いじめの多くは、加害者の嫉妬が原因であったり、支配関係の人間関係を好む傾向から生じることがあるということに言及しておく。

そして、専門家の大半がその論理的で建設的な様々な研究や実態調査を経て、いじめは「加害者の一方的な責任」に帰結すると結論付けている。

世の中には未だ十分な論理的思考ができない大人がたくさんおり、その中には時流の流れなどで影響力を持ってしまう人がいる。そういう人物が、実態を知らずに「被害者原因論」を持ち出してしまうことがある。

そして、主張の正しさより誰が言うかが重要視されることが世の常であり、その影響力に流されやすかったりする人物や、私の周りに沸くアンチ虫のような属性の人間が「被害者原因論」を必死に補強したりすることで、一定の賛否両論が生じることがある。

ただ、それは炎上商法でも一抹のボヤに過ぎないのである。

現場ばかりにいる私は抜いても、世の碩学といえる立派な研究者が出した結論に時間が経つに伴い問題の考え方は帰結する。

影響力のある人物や誤った認識の教育者から「被害者原因論」を突きつけられて苦しんでいる被害者やその保護者も多くいることであろうが、いじめは加害者の責任に終始する。

「自信をもって被害者は微塵も悪くないと言おう」

そして、今悩む方や交渉前の方に1つ覚えておいてほしいことがある。

加害者の中にも反省できる環境にある者は、呼び出さなくても、話し合いを求めなくても、自ら謝りに来るものだ。

私も親の立場であるが、仮に我が子が何かをやったとなれば、時間を削ってでも謝罪に出向く。そういう親の姿は極めて大事なことなのだ。

どんなに裕福な家庭であっても、社会的なステイタスが高い職業に就く親であっても、こうした対応ができない親はその段階で親として未熟であるとしか言いようがない。

自ら積極的に謝罪ができない加害側は基本的に反省の「は」の字もないのである。

反省だけなら猿でもできるという放送コードギリギリのCMがその昔あったが、それで言えば、サル以下の環境の加害者には、容赦をすることはないし、情状酌量する必要は一切ないのだ。反省できる施設は社会の構造として用意されている。そうした施設に入ることは人権侵害にも何にも当たらないだろう。

さらに言えば、いじめ問題に詳しい精神科医さんらは、被害者にはケア、フォローが必要であるが、同時に特に常習加害者については、治療的アプローチが必要だと説く。

海外ではそうした取り組みの方がスタンダードであるという現実もある。

未来の常習犯罪者を生み出さないためにも、加害者には治療を受けさせてはどうだろうか。さらに、反省ができる家庭環境を作れない加害保護者にも、遅れながらも治療プログラムを用意するのが建設的社会の創造につながるかもしれない。

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