前回、多くの人が貧しさの中にありながらも上を向いて歩こうとした戦後復興から、生活の安定に向けて躍起となった時代と今は違う。
新型コロナウイルスの対応の説明責任は不足し、平気でうそをつく官僚がおり、選挙制度を真っ向から否定する買収事件を行っても責任を取らない政党があったり、そこにレガシーを支えるはずの社会の倫理観は欠如している。
この欠落感が五輪を喜べない状況に導いていて、レガシーを叫べなくしているのだ。
どこで道を間違えたかと言えば、五輪を作るプロセスから違っていた。
結局はやりやすさを優先し密室で決めていき、市民参加も表向きだけのアクションに過ぎず、インクルーシブな状況とは程遠いイベントとなってしまった。
ゴルゴダの丘はイエス・キリストが十字架にはりつけられた場所だが、遠藤周作はその場に到着した瞬間の失望感を「これが─」と言葉を失った様子を再現し、こう表現している。
「その聖堂の前の広場にはガムやスライドを売る男たちが一列に並んでいて、我々を見ると餌を求める雛のように口をあけて叫びはじめた」
「物売りたちが叫び、壁にもたれたアメリカ人の青年が肩にかけた携帯ラジオを聞いている」。
私は五輪がたどり着いた先にある失望を心配する。
キリスト教の聖地が厳かな場所でなくなってしまう現実を考え、東京という街が夢見られる場所であるように、五輪に希望があると唱えて疑わなかった為政者には、次の確かな希望を一緒に思い描く準備をしてほしい。
もちろん、都民として私がやるべきことも果たしたいと思う。
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image by: chuck hsu / Shutterstock.com