死者は1万人以上。「安政江戸地震」の前夜に日本で起きていたこと

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昨年放送された大河ドラマ『青天を衝け』をはじめ、幕末を扱ったドラマや小説の多くに描かれている安政江戸地震。この震災を契機に時代は一気に明治維新に動いたとも言われていますが、そもそもこの時期、江戸の世はどのような状況にあったのでしょうか。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では早見さんが、その時代背景や政情について専門家の目線で分かりやすく解説しています。

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安政江戸地震「第一回 地震発生と黒船来航」

今月は安政江戸地震について語ります。

安政と聞いてもぴんとこない読者もおられるかもしれません。「安政の大獄」と言うと、多少はおわかり頂けるのではないでしょうか。安政は西暦にして1854年から1860年、浦賀に黒船が来航したのが1853年ですから歴史上の区分で言う幕末です。

幕末の江戸を襲った大地震とあって、嫌でも歴史に、つまり明治維新に大きな影響を及ぼしました。妙な言い方ですが、地震が変えた日本史のテーマに適した地震です。

安政江戸地震を語るのと併せて、江戸時代を舞台とした小説を書いている者としまして、江戸という町と江戸での武士や町人の暮らしにも言及したいと思います。

安政2(1855)年10月2日の午後10時ごろ、震度6の大地震が江戸を襲いました。震源地は江戸湾北部、深さは約40キロと推定されています。町人が居住する町人地では、5,000人近い死者と1万4,000を超える家屋が倒壊したのでした。

江戸の町は壊滅的な被害を受けたのですが地域差がありました。本所、深川、浅草、日比谷といった地盤の弱い埋め立て地で特に大きな被害が出たのです。また、上記犠牲者と倒壊家屋の数は町奉行所の調査ですので、江戸城や幕臣、大名屋敷などの武家地、寺社地での被害状況は反映されていません。それらを合わせると1万人を超す死者と数え切れない建物が倒壊、焼失したと推察されます。

甚大な被害をもたらした大震災は人々の記憶に深く刻まれ、この68年後に起きた関東大震災と相まって東京は100年と経たず大地震が起きる、という都市伝説ができたのかもしれません。関東大震災発生時、多くの有識者が安政江戸地震に言及しています。

では、まず時代背景について語ります。

ご存じのようにアメリカ海軍東インド艦隊司令長官、マシュー・ペリー率いる黒船の来航により、天下泰平の夢破れ、時代は激動してゆきます。その黒船が浦賀にやって来たのは2年前の嘉永6(1853)年の6月のことでした。

ところで、ペリー率いる艦隊は遥々太平洋の波頭を超えてやって来た……と思っておられる方がいらっしゃいます。これは間違いです。ペリー艦隊は太平洋ではなく、大西洋からアフリカの南端、喜望峰を経由し、インド洋を横断してシンガポールを通過して太平洋に出て北上、マカオ、香港、上海、琉球を辿って浦賀へ来航したのです。

出航したのはバージニア州ノーフォーク、つまり、東海岸です。当時、パナマ運河は開通していませんでした。ちなみにパナマ運河が開通したのは1914年です。それまでは、太平洋と大西洋を船で行き来するにはアメリカ大陸の南端、マゼラン海峡を通過する必要がありました。

話を戻します。

ペリーは大統領、ミラード・フィルモアの親書を携えており、幕府に開国を要求しました。ペリー以前にも何度か通商を求めてきた船はありました。

ペリーと同じアメリカ海軍東インド艦隊司令長官だったジェームズ・ビッドルも7年前の弘化3(1846)年に二隻の帆走式軍艦で浦賀にやって来て開国を求めました。幕府はアメリカと通商する意思はないと拒絶、ビッドルはあっさりと帰っていきました。

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