ところが、流通経済が発達したのに米価は安定していた為、収入は増えず、更に18世紀の後半からロシア船、イギリス船などの西洋諸国の船が日本近海に侵入するようになって海防の負担が大きくなってゆくと幕府財政は悪化しました。倹約、財政削減に努めますが、それでは追いつかなくなります。幕府は貨幣改鋳、つまり、金貨、銀貨に含まれる金、銀の量を減らし、大量の貨幣を発行して生じた差益により、財政を建て直しました。
しかし、大名の領国から徴収する考えはなく、田沼意次が現代で言う人頭税を発想し、大名の領国からも徴税しようと考えたようですが、大名たちばかりか幕府内からも大反発され、失脚の大きな一因となりました。江戸時代は地方自治が政治の基本、幕政は徳川宗家とその家臣たち、各藩の藩政は大名と家臣たちが行っていたのです。くどいですが、これが、原理、原則でした。
幕政は徳川宗家と譜代大名、旗本が行う、それ以外の者は誰であろうと関わること、ましてや意見も言えない、幕府開闢以来の原理、原則を阿部正弘は破ってしまったのです。
未曾有の危機、平時ではなく非常時だという判断からなのでしょうが、これはパンドラの箱を開けることになりました。
次週ではパンドラの箱が開いた幕末日本と江戸という大都市の構造、暮らしについて語ります。楽しみにしていてください。
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image by: Tokyo Metropolitan Library – Tokyo Shiryo Collection 0277-C56 – / public domain