死者は1万人以上。「安政江戸地震」の前夜に日本で起きていたこと

 

幕府や浦賀奉行所がペリー艦隊に強い衝撃を受けたのは、四隻の山のような巨船であったこと、四隻の内二隻が最新の蒸気船であり、しかも大砲を備え、いつでも砲撃できるように砲門が開かれていたからです。ビッドルは従来の帆走式の軍艦で交渉態度も強硬姿勢ではありませんでした。ペリーはビッドルの柔軟姿勢を反面教師として、強硬手段に訴えたのかもしれません。

日本人が帆を張って風に頼らずに運航できる蒸気船を見るのは初めて、しかも砲撃態勢にあることに浦賀奉行所の役人ばかりか江戸の幕府首脳も驚き、恐れます。ペリーは大砲で幕府を威嚇して国を開かせようとしたのです。

いわゆる、「砲艦外交」でした。

アメリカが日本を開国させようとしたわけは、清国との貿易を拡大したかったからです。西海岸から太平洋を進んで清国へ行く航路を開き、船の補給基地として日本の重要性が高まったのでした。また、北太平洋での捕鯨船の寄港地にもしたい思惑もありました。

来航当初は上を下への大騒ぎとなりましたが、物見高いのが江戸っ子です。読売(瓦版)が記事にし、黒船見物を始めます。江戸っ子ばかりではなく、日本全国から見物人が浦賀に集まりました。

西洋文明、技術に関心を寄せる蘭学者、兵学者は黒船の様子を入念に絵にしたり、調べたりします。高名な蘭学者には全国の大名から大砲製造の依頼が届くようになりました。

この時、幕政の責任者は老中首座(首相)、備後福山藩主阿部正弘です。阿部は幕府開闢以来の大事件に遭遇し、前例のないことをやりました。ペリーの要求、いや、アメリカ大統領の求めに応じて開国すべきか否かについて広く意見を求めたのです。

ここで、お節介ですが簡単に幕府政治について語ります。少しだけ我慢してください。

幕府の政治は老中、若年寄、京都所司代、大坂城代、寺社奉行などの重職たちが重要業務を協議、決定し、江戸町奉行、勘定奉行を頂点とする奉行たちが実務を遂行しました。前者は大名が、後者は旗本が就きました。

また、大名と言っても重職に就くのは原則として、徳川宗家の家来筋に当たる譜代大名です。御家の石高にして2万5,000石から10万石未満、10万石を超える譜代大名は大老に就任しました。もっとも、大老は適任者がいなければ空席でしたので、通常は4人の老中たちが幕政のトップです。実務を担う旗本と併せ、徳川宗家の家来たちが幕政を動かしていたのです。

従って、庶民はもちろん、加賀百万石の前田家のような外様の大大名も、尾張、紀伊、水戸といった徳川御三家も幕府政治には口出しはできませんでした。

このことは、徳川幕府以前の武家政権との大きな違いです。徳川幕府以前の豊臣政権も足利幕府も鎌倉幕府も政治を行うのは、大きな領国を支配する有力者でした。つまり、権力と富を併せ持っていたのです。

徳川家康は外様の有力大名、前田家、島津家、伊達家、毛利家等々には大きな領国を安堵する代わりに幕政には関与させませんでした。しかも、江戸から遠い国々に置きました。また、外様大名以外にも徳川宗家家の親戚筋である親藩大名、御三家にも幕府の役職に就かせなかったのです。権力と富の集中をさせない、家康らしい賢い組織造りでした。

一方で、幕府も大名の自治を認めていました。領国内における大名の政治には口出しはしませんでした。ただ、大きな一揆や御家騒動が起きた場合には介入しました。また、徴税権も大名に任せました。幕府が大名の領国から税、つまり年貢を取ることはありませんでした。幕府には大きな直轄地、天領があり、天領から収納される年貢で財政を賄い、時折、大商人から運上金、冥加金の名目で徴収していました。

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