卒業式や入学式は日本人にとって「実害」しかないと断言できる理由

 

ジョブズの場合は、大学を中退してしまって学位を持っていない人間が、壮絶な紆余曲折の果てにこうしたスピーチを行ったというところが「格好良かった」わけです。また、つまりは大卒ではない人物にスタンフォードは「名誉博士号」を授与したわけです。もっと言えば、ジョブズのスピーチには

「オレは大学を出てないが、ここまで来た。お前らも、有名大学の学位をもらったからといって安心しないで、思い切り逸脱して世の中を変えてみろ」

という極めて挑戦的なメッセージが含まれていました。その場の卒業生一人ひとりに対しては激しいまでに「その後の生き方」を問いかけたというわけです。

そうした「中身のある」儀式であれば、まだいいのですが、日本の卒業式に関して言えば、とにかく疑問だらけと言えます。

まず卒業生が偉いのではなく、来賓が威張っているのが気に入りません。来賓として、例えば総理大臣が来たとか、皇族が来たとかいうのならまだ分かります。ですが、教委とかPTAとか「子どもの教育に奉仕する」のが目的である裏方が、偉そうに「来賓」扱いになっていて、司会とか校長までペコペコするというのは「不思議な光景」としか言いようがありません。

そうした光景を見せて、子供に何を教えようというのでしょうか?まさか、この国はもう変われないから、マトモな勉強や仕事をしたかったら出ていけという意味ではないか、真剣にそう思います。

そのPTA会長ですが、そのスピーチには「ひな型」があるのです。例えば、「卒業式、式辞、例」でGGさんに聞いてみると、出てくる出てくる、怪しいマナー教師的なサイトから、中にはどこかの市のPTAが「式辞の見本」を申し送っていたり、本当にヒドいです。

私は、こうした儀式性100%で、内容ゼロ、パーソナルな魅力ゼロのスピーチを聞かせるというのは、子どもの脳に悪い影響があると真剣に思っています。大人になるということは、ああいうスピーチを無難にこなすことだ、というようなメッセージを「垂れ流して」来た挙句に、国が滅ぶのではシャレになりません。

もっと不思議なのは、卒業式=別れのセレモニーだとして、子どもたちが泣くという「アレ」です。別れが辛いのなら、それは相手が親友だからであって、卒業した後も交友関係を大事にしたらいいのですが、一体どうして泣くのかというと、一種の共同体から離れる際のセンチメンタリズムに酔っているわけです。

そのように「何かに属す」ことが大切で、「卒業して属さなくなる」のが悲しいという感情を刷り込むことは、結局は「独立した人格形成」には弊害だと思うのです。そもそも、生産ラインに大勢の人員を並べて大量生産する製造業などは、日本にほとんど残っていないので、そんな人材育成など必要ないのですが、何をやっているのでしょうか?

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