匿名国家ニッポンの卑怯。「批判」と「誹謗中傷」の違いとは?

Shintaro_Ishihara,_2006-Sep-1_Rev
 

誰もが発信可能となって「誹謗中傷」が訴訟に発展し、安易な拡散をしても責任を問われるケースが増えてきた現代において、「批判」と「誹謗中傷」を見分け、読む読まないを決める力をつけることは必須と言えそうです。今回のメルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』では、著者でジャーナリストの上杉さんが、以前勤務していたニューヨークタイムズのルールを紹介。匿名、無署名のものは読む価値なしと断じ、新聞すらも「オプエド」と言われる反論掲載の場を持たず、無署名の記事も多い“匿名国家”ニッポンを「フェアに」批判しています。

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批判はいくらでも構わない

「批判はいくらでも構わない。だけど、侮辱だけはしないでくれよな」

石原慎太郎氏(故人)と出会ったばかりの頃、インタビューの度にこう言われたものだった。

(そうか。がんがん批判していいんだ!)未熟な筆者は、了承をもらったと勝手に解釈し、石原批判の文章を書き連ねたのだった。 「おい、上杉君。なんだあの記事は!誹謗中傷の類じゃないか。君はそういう文章を書くのか?」

石原都知事(当時)の許容する批判の判断基準がわからない。書くたびに叱られ、発信するたびに怒られる。結局、石原氏の満足する答えはわからない。だから、自らの作った基準に拠って勝手に判断していると、いつの間やら、逆鱗に触れることもなくなったものだった。

私の基準は「フェアであるべき」というものだった。フェアネスの精神はあらゆる価値観を許容するものである。その心構えを忘れなければ、それほど大きな間違いもないのだ。とはいえ、言論空間における「批判」とはいったい何を指しているのだろう?

実は、「批判」と「誹謗」には明確な違いがある。今回のコラムでは、当時、筆者の働いていたニューヨークタイムズにおける報道ルールと、自らの経験から導き出したそれらの違いについて、3つの指標を示すことで解説していきたいと思う。

1、バイラインの有無
バイライン、つまり、執筆者の署名のない記事は、それを誹謗中傷の類とみなして、その時点で読むのを中断してもよいだろう。

匿名の影に隠れて、他者を攻撃するのはフェアな言論人のやることではない。そもそも発信者のわからない論評など、人生の限られた時間を費やすに値しない。米国社会では、それは卑怯とみなされる。

確かに、無署名記事にも例外がある。社説(エディトリアル)は原則、無署名である。だが、そのかわり海外メディアには「オプエド」がある。しかし、日本にはそれすらない。だから、匿名国家ニッポンの卑怯をみていると、このくらい厳しくしてもよいと思ってしまう。

実際、ジャーナリズムのひとつの見本とされるニューヨークタイムズでは、記者の無署名記事は一切許されていなかった。匿名や無署名で書かれる記事は印刷するに値しない、というのが創業以来のポリシーなのだ。

健全な批判精神は、ジャーナリズムにとって欠かすことのできない要素だ。適度な論争のためには適当な批判は欠かせない。無批判の社会では、議論の質も高まらない。とはいえ、誹謗中傷はいらない。それは次の指標からもうかがえる。(2に続く)

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image by: MCSN ADAM YORK, USN, Public domain, via Wikimedia Commons

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