平安時代という名前を聞くと、私たちは「華麗で優雅な時代」というイメージを持つことが多いのではないでしょうか。しかし、実際の「平安」はそんな時代ではなかったようです。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、 平安時代を襲い続けた「不安」な日々について紹介しています。
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平安ではない不安な時代 日本の生活習慣を大きく変えた疫病と地震
平安時代、平安京と聞くと何をイメージするでしょうか。
貴族、曲水宴、十二単、源氏物語、枕草子……華麗なる王朝文化を思い浮かべる読者が珍しくないと思います。その名の通り、荒々しい武士の世以前の平和な時代、であったはずでした。
日本史上の時代区分で言いますと、延暦13年(794)から文治元年(1185)までの391年間、約400年もの期間です。時代区分では江戸時代の265年間を大幅に上回る長い時代でした。では、400年近くも平和、泰平が続いたのでしょうか。
実際の平安時代は、「平安」とは程遠い、「不安」な日々が続いていたのです。そんな、「不安」を象徴するのは地震、疫病などの天災、合戦という人災です。平安時代は他の時代区分同様、天災、人災と無縁ではありませんでした。
平安京、今日の京都市の夏を彩る祇園祭は疫病の流行と巨大地震によって始まりました。地震と疫病のダブルパンチに襲われた貞観年間(859年~877年)のことです。大阪の天神祭り、東京の神田明神祭と共に日本三大祭に数えられる祇園祭は今も大勢の見物客で賑わいますね。
今回のコラムでは祇園祭を生んだ貞観地震をはじめ、平安時代に発生した大地震について紹介したいと思います。
貞観11年(869年)7月9日、陸奥国(東北地方)の東方沖を震源に発生した貞観地震は推定マグニチュード8.6、巨大津波による大きな被害が出たことで、東日本大震災に比較されます。また、当時、平安京を中心に疫病(天然痘)が大流行していました。
今日で言えば、東日本大震災発生時に新型コロナウイルス(日本ではなくヨーロッパ、アメリカ、インドレベル)が日本を襲ったような状況であったのです。
被害状況に関しては多賀城の記録があります。多賀城は現在の宮城県多賀城市に神亀元年(724)蝦夷を征伐する為に築かれました。平安時代以前、都が現在の奈良市に置かれ、平城京と呼ばれていた時代です。平時は陸奥の国府(役所)として機能しました。広大な陸奥国を治める官庁、朝廷の威光を示す為もあり豪壮で堅固な造りでした。
ところが、その多賀城内の建物がことごとく倒壊し、数多の圧死者を出し、地割れがしてそこに埋没する者が続出しました。慌てふためいたのは人間ばかりではなく、馬も牛も驚き奔ったと記されています。堅固な城柵であった多賀城がこんな有様ですから、庶民の居住空間の惨状たるや想像を絶します。
被害はこれに留まりません。
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