東日本大震災と同じく巨大津波が陸奥国の広範囲の沿岸を襲いました。津波に呑まれた人は1,000人以上と記録されていますが、これは多賀城付近ですから、陸奥国全体では把握できない程の犠牲者が出たことは間違いありません。記録には、「山に登るも及び難し」とありますから、津波の高さも東日本大震災と同程度であったと想像されます。
実際、西暦2000年にボーリング調査が行われ貞観地震の際には津波が仙台平野の内陸深く遡上し、推定断層モデルから9メートル程の津波が7、8分間隔で繰り返し押し寄せたと推察されました。また、2007年に実施された津波堆積物調査では、現在の岩手県、宮城県、福島県という陸奥国を形成した地域ばかりか、茨城県沖にまで震源域が及んだと指摘されました。
ご存じのように東日本大地震が起きたのはこの調査の4年後、震源域も共通しています。改めて地震の恐ろしさに背筋が凍ります。貞観地震が発生する数年前、貞観5年(863)には越中(富山県)・越後(新潟県)地震が起き、多数の圧死者が出ました。翌年には富士山と阿蘇山が噴火しました。この時の噴火で富士山の北西に青木ヶ原樹海が出来ました。更に貞観10年(868)に播磨国(兵庫県)地震が発生、推定マグニチュード7という大きな地震で、貞観地震が起きたのはこの翌年です。
こうしてみますと、6年の間、日本は災害続き、人々は恐怖におののいていたのではないでしょうか。貴族たちも平安京で優雅に和歌を詠み、宴を催しながらも災害が止むのを神仏に念じていたことでしょう。
建設機械もワクチンもない時代、災害を鎮めるには神仏にすがるしかありませんでした。貞観年間は前記の地震、富士山、阿蘇山噴火ばかりか、疫病の蔓延が続きました。大勢の人々が死亡、貴族も庶民も死と向かい合っていたのです。当時の人々は、死は伝染する、と考えていました。
その為、川や山、野辺に捨てられた亡骸を放置できず、火葬の習慣が加速したと言われています。今日、日本では火葬は当たり前ですが、貞観期以降に広まったのでした。
疫病と地震という自然災害が日本の生活習慣を大きく変えたのですね。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年6月17日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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