利権化する教会税
この十分の一税は、当初は、ユダヤ教徒やキリスト教徒の自発的な義務でした。が、キリスト教がヨーロッパに広く普及し、教会組織が大きくなってくると、十分の一税はキリスト教徒における「明確な義務」とされるようになっていきました。585年には、フランク王国において、第二マコン教会会議というキリスト教の会議が行われました。この会議上で、「十分の一税」がキリスト教徒の義務として明文化されました。十分の一税を納めない者には罰則さえ与えられるようになりました。罰則には教会への立ち入り禁止、破門、はては家屋の接収までありました。
そして、十分の一税の使途も明確化されるようになりました。十分の一税は四分割され、一は現地の教会の運営資金、一は建物の費用、一は貧しい者などへの慈善事業、一は司教に送られるということになっていました。司教というのは、地域の教会を管轄する本部のようなものです。
これは教会だけで決められた税ではなく、国家的に認められた税になっていきました。ローマ帝国がキリスト教を国教と認めて以降、ヨーロッパ諸国の多くの国がキリスト教を国教としてきましたので、必然的にそういう流れになったのです。
現在の西ヨーロッパ諸国の元となる国、フランク王国のカール大帝は、779年に「国民は教会に十分の一税を払わなくてはならない」と明言しています。そして納税の方法も細かく定め、「証人の前で自分の収穫の十分の一を分割しなければならない」としました。つまりは、自分の申告が正しいかどうか証人の前で証明しなければならないわけです。国王がそういうことを言っているのですから、もう完全に「強制税」となったわけです。
そして、この十分の一税により、キリスト教会(カトリック教会)は潤沢な資金を持つことになり、それは勢力拡大につながりました。
この教会税が、税として社会に確立していくうちに、「教会ビジネス」といえるような動きもでてきました。というのも、教会のない地域に教会をつくれば、十分の一税などの教会税を徴収できるのです。教会税の大半は、税を徴収した地元の教会に入ります。
司教に「上納」するのは、教会税の四分の一だけです。だから、地域の有力者や、少し金を持っている者が、新たに教会をつくるようなことも生じはじめました。ヨーロッパ中に、新しい教会がつくられたのです。そのうち、教会同士による教会税の縄張り争いのようなことも生じてきました。
するとキリスト教の司教たち(上層部)は、地域の教会同士の縄張りを決め、「新しくできた教会は、元からあった教会の十分の一税を横取りしてはならない」などの規則が定められました。こうして十分の一税が、利権化するようになったのです。
また貴族たちが教会を私有し、十分の一税の徴収権を得るということもよく起こるようになりました。やがて、十分の一税は、それ自体が債券のように扱われるようにもなりました。教会が、自分の地域の「十分の一税を徴収する権利」を売りだすのです。かのシェークスピアも、老後の生活のために十分の一税の債権を購入した言われています。
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