歌はときに傷ついた人に寄り添い、元気づけ、明日を生きる力を与えてくれることがあります。85の手記が編まれた『私を支えたこの一曲』(1996年 歌の手帖編)という本の中で、最も多い3人があげているのが、1975年に発表された中島みゆき作詞作曲の「時代」でした。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』で、評論家の佐高さんは、3人のうちの1人のエピソードを紹介。50年近くも聴き継がれ、多くの歌手がカバーして歌い継いではその歌詞のままに生まれ変わり、さらに多くの人とのめぐりあいをくり返すこの歌が、なぜ人の心に響くのか、探っています。
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中島みゆきが歌った「時代」に救われた人々
「時代」の歌詞を、お堅い役所(経済企画庁)がもろに関わっている雑誌に書く原稿の冒頭に引いたことがある。時代は変わっても、お役所言葉は変わることがない、と皮肉ったのである。
1975年秋、帯広で医者をやっていた中島の父親が脳溢血で倒れた。51歳だった。「時代」はこの父親が再び歩き出す日への祈りを込めて歌われたと言われる。しかし、その日が来ることはなく、翌年の1月に父親は亡くなった。
歌の手帖編の『私を支えたこの一曲』(青年書館)という本がある。全国から寄せられた85編の手記の3編もが「時代」を挙げている。他にこれほど挙げられている曲はない。『この一曲』は1995年に募集されているが、当時33歳の家事手伝いの淡路みさほは3度「時代」に支えられたという。
1度目は彼女が中学2年の時だった。父親の仕事の都合で転校し、「転校生のくせに生意気だ!」と、ひどいイジメにあう。思い出したくないが、文化祭のキャンプファイヤーを囲むフォークダンスで、男子生徒が誰も手をつないでくれなかった。1人輪を抜け出して自宅に帰り、思いきっり泣きながら、怒鳴るように「時代」を歌った。この曲がなかったら…。
2度目は岩見沢高等看護学校2年の時。父親が急逝した。45歳の母親と中学2年の弟は落胆しきっている。しかし、彼女は泣けなかった。
「人は本当に哀しい時、泣けないんだ」
そう思った。
今後の生活のことで頭がいっぱいだったからかもしれない。半年くらい経って、何とかメドがついたら、今度は涙が止まらなくなった。「みさほ、どうした」という父親の声がする。そんな感じの中で、まるまる2週間、部屋にこもって「時代」を聴いた。
「1つ1つこわれたお皿の破片を合わせるよう」な思いだった。いわば、1人だけの葬式である。「しっかり俺の分まで生きてくれ!」涙も涸れるほど泣き続ける彼女に向かって、天国の父親はそう言っていた。
そして3度目。ナースになって4年後。彼女はメニエール氏病、および自律神経失調症になり、ドクターに難病と診断される。それから10年の闘病生活。自分が情けなくて、何度か「死」の世界へ旅立とうとしたが、そのたびに「時代」のメロディに重なって父親の姿が見え、自殺を思いとどまった。
『魔女伝説 中島みゆき』(集英社文庫)を書いたこすぎじゅんいちは、この歌姫について、「近眼」と「転校生」というポイントを挙げている。「見えないものに、いくら眼をこらしても無駄だと教えてくれる近眼故に彼女は自分の世界に沈潜する傾向を持ったし、転校生故に、人見知りと人恋しい感覚の双方を強めた」というのである。
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