ほぼ正反対。日本人が知らない「もはや戦後ではない」の真の意味

 

日本の歴史にもしばしば見受けられます。

たとえば、織田信長と豊臣秀吉を比較した安国寺恵瓊の手紙は独り歩きの典型です。

毛利家の外交僧であった恵瓊は木下藤吉郎を名乗っていた頃の秀吉と足利義昭の身柄を巡って交渉しました。

義昭は信長に京都を追われ、流浪の境遇にあります。交渉の内容を恵瓊は毛利家に書き送ったのですが、その中で信長は公家とり、信長の世は3年か5年くらいは持つだろうがその後は高転びに転がる、ところが木下藤吉郎は、「さりとてはの者」だと記しているのです。「さりとてはの者」が優れた人物という意味に受け止められ、尚且つ信長が本能寺で横死した後に秀吉の天下となった史実もあって、恵瓊の手紙は信長の没落と秀吉の台頭を予言するものだ、と解釈されてきました。恵瓊の先見性を賞賛する手紙だと独り歩きをします。

ところが、これも恵瓊の意図とは大きく異なるのです。

手紙が書かれた当時、義昭を追い、将軍不在となった京都を信長が治めなくてはならない状況でした。室町将軍が担ってきた朝廷の庇護、諸々の儀式、典礼を担わなければならず、多忙を極める信長は困って義昭を都に戻そうとしたのです。しかし、義昭は信長の求めに応じず毛利を頼ろうとします。毛利は義昭に来られては迷惑でした。

そこで恵瓊と秀吉が義昭受け入れを巡って話し合ったのです。話し合いの後、恵瓊は義昭が京都に戻らず、信長が足利将軍に代わって政を担わなければならないだろう、その為、朝廷から公家の官位を与えられると見通しました。

信長の京都や畿内治世はうまくはいかない、3年から5年は持つだろうがその後は挫折するに違いない、という考えも恵瓊は記しました。しかし、信長の治世を否定した後、いや、信長には木下藤吉郎のような、「さりとてはの者」、優れた家臣がいるのだから、案外巧くやりおおせるかもしれない、ともしたためました。

後年受け止められてきた信長の没落と秀吉の勃興を予言したとはかなり違う内容ですね。恵瓊は将来を見通したどころか、判断に迷っていたのです。

また、この手紙からは義昭追放後の信長の苦悩が伝わってきます。小説、ドラマで描かれる果断な信長像とは違う生身の信長が窺えます。

本人の意図とは違う意味が独り歩きしてしまう、そして独り歩きした内容が既成事実化してしまう、昔も今も怖いことですね。

image by: IgorGolovniov / Shutterstock.com

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