働き方改革や授業改善など、学校の教職員にふりかかってくる無理難題。これですべて良くなると考えている上からの命令ですが、本当にそうなのでしょうか。無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教諭の松尾英明さんは、 教員に関する問題の本質をズバリ指摘しています。
やりたくないことをやるな
働き方改革、授業改善、教員の質の向上。これらを実現するために、現場教員には、様々な作業が求められる。全て上から「よかれ」と思って命じられて降りてくる作業である。
新しいことをする時は、根本・本質・原点に立ち返る必要がある。これら改革等について、思うことが多々ある。『やりたいことをやれ』(本田宗一郎著 PHP研究所)P.204より引用する。
一般に良い品を安くつくれば、必ず売れて、事業も繁栄すると信じられているが、そうとは限らない。
なぜなら、石臼を如何に巧みに安くつくっても、現代の商品とはならない。
何度も読み返している本だが、改めてここが刺さった。
そう、石臼は、現代ではまず売れない。どんなに完璧で素晴らしい石臼でも、炊飯器や電子レンジのようにあまねく一般に求められることはない。あくまで、大昔の時代の生活必需品である。
学校教育の各種改革に関して、この点を深く鑑みる必要がある。
先の言を借りて、教育に当てはめてみる。
「一般に良い教育が能率よく行われれば、必ず子どもへの成果が出て、国も繁栄すると信じられているが、そうとは限らない。
なぜなら、時代遅れの教育を能率よく行っても、現代社会に通用する子どもにはなり得ない」
そもそもの「良い教育」自体が、石臼づくりのようになっていては意味がない。例えば、少なくとも今求められる姿は「子どもが黙って座って言うことをよくきく」ではないはずである。
もっと言うと、毎日決まった時間に集まって、集団で同じことを反復する力でもないはずである。それは、ロボットの最も得意とする分野である。ロボットが人間の代わりに多くをこなす未来の社会において、個性が必要でも同質性を高めていく必要はない。
常々述べてきているように、子どもは教師の鏡である。つまり、教師がそのように扱われてしまっているのが、そのまま子どもの姿として映っている。教師が黙って座って命令をよくきいているだけの状態では、どうしようもないのである。
命令する側に、能率よく「よい人間」を育てよう(「よくない人間」を排除しよう)という発想が垣間見える。学校教育も、長きに渡り、この状態に陥っているのではないか。学力調査を筆頭に各種調査が「よい児童・生徒」が育っているかを管理するために数値化し序列化するシステムになっていることは明白である。
子どもたちの中には、それが変だとわかっていた上で、黙って座って言うことをきいている者もいる。競争・序列意識が先走り、やっている意味が見出せない学習など、単なる苦役である。それでも我慢してやるのは、それしか生きる選択肢がないように思われるからである。これらも、教師自身がされていること、耐えていることが、子どもへの指導に反映されているといえる。









