学級生活の些細なところに、この教育の種は撒かれている。例えば、教室の誰かがうっかり何かを床にぶちまけたとする。その時、周りの子どもはどう動くか。最初から自然に動けるかというと、なかなかそうはならない。助けたいという気持ちのある子どもも、多くの場合、何をすればいいかわからないからである。やはりここは「何が正しいか」「どうするべきか」を指導者がきちんと教える場面なのである。ここで「傍観者」しかいない状態で放置されている教室は、いじめ発生時の動きも推して知るべしである。
勉強でわからない子どもがいる時もそう。「自分はできている」と得意気になっている子どもが幅をきかせているような教室では、話にならない。わからない仲間に対し、自分は何ができるかと悩み、考えて、動けることである。極端な話、仲間が一緒に「う~ん」と唸ってくれているだけでも、かなりいいのである。それだけで、わからない子どもも、かなり救われる。あくまで「勉強が嫌じゃない」ことが大切で、それは「勉強がわかる」ということと直結する訳ではないのである。
そういった日常の全てが、子ども自身の自己教育になるのである。「先生」に何でも頼っている教室では、この面での成長は起き得ないのである。
いじめ問題は、根深い。根深いということは、根を押さえることさえできれば、解決につながる可能性がある。だから表面的に「仲良くしましょう」などということは、無意味どころか有害ですらある。日常の実際の行為こそがすべてである。
道徳教育も、ここは常に考えておかねばならない。徳目が見え見えで「チャンチャン」で終わるお粗末でお約束な道徳授業は、浅薄で表面的な人間を育てる。「道徳の研究校は荒れがち」というのはこの辺りに原因があると考えている。
道徳とは、単なる言葉や気持ちではなく、実際の姿と行動こそが大切なのである。
いじめを根から解決する。そのためにも、教師は絶えず情報収集をし、その情報がしっかりと集まってくる学級集団に育てることが肝要である。
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