繰り返すが、線引きがはっきりしているからこそ、安全・安心が保たれるのである。
学校のきまりも同じである。
当たり前だが、学校は無法地帯ではない。
それぞれ、必要に応じた場のルールがある。
場のルールに従うというのが、その場に属す際の大原則である。
「自分くらい」とか「ちょっとぐらい」というのは通用しない。
線引きされたその上を越えたら、アウトである。
だから、前回も書いたが「枠の中で自由の権利を行使する」というのが大切なのである。
その場の枠であるコートの大きさは、決まっているのである。
その場で「○○は禁止」「△△すること」と決まっているなら、それがルールなのである。
例えばドレスコードに従えない人は、そのレストランに入場する「お客様」としての資格はないということである。
ルール自体が時代に合っておらず、おかしいこともある。
これはルール設定者側が真剣に考えるべき点である。
同時に、そのルールに従うべき立場にある側も、真剣に交渉すべきである。
ただしその場合、自者の都合と欲を満たすだけの「小欲」であれば、それは通らない。
世のため人のためを考えた「大欲」によるものであれば、検討の価値ありのはずである。
スポーツの根底にある、他者尊重の精神である。
SNSの普及のせいもあってか、自由の履き違えと思われる言動が散見される。
あくまでルールがあり、とにかく面白ければいいというものではないということは、よく認識され始めているところである。
学校に対しても誤った自由の意識が見られる一方で、これは学校や教師の側にも見られる。
考えるべきことはシンプルにたった一つで、原則としてルールを守ることである。
ルールを破れば罰せられる、あるいは権利を制限されるということも当然の認識とすべきである。
そして、ルールの側が本当におかしいならば、公的に話し合って再検討すべきである。
誤ったルールであれば改善されるだろうし、正当であればそのままになるはずである。
特に公務員はルールに従うしかない以上、適切と思われないルール自体の改善を求めるのは至極当然である。
毅然とした対応とは、機械的な冷たい対応のことではない。
正当な判断基準に則った対応のことである。
毅然と対応できる社会の基盤として、学校もそうでありたい。
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