更に義龍は十三代将軍足利義輝から、「義」の字を与えられました。この時に名前を、「高政」から、「義龍」に変えたのです。将軍の名の一字を与えられるのは名誉でした。特に上の方、つまり、「義輝」なら、「義」を与えられるのは大いなる名誉でした。ちなみに、上杉謙信は、「輝」を与えられ、「輝虎」と名乗ったことがあります。 武田信玄は、十二代将軍義晴の、「晴」を与えられ、「晴信」と名乗り、今川義元は、「義」を与えられたので、「義元」だったのです。
義龍は一色義龍となり、官職も左京大夫に就きます。土岐氏、父道三を凌いだ義龍でしたが、永禄四年(1561)五月に急死しました。桶狭間の戦いの翌年です。尾張を統一し、東の脅威であった今川の勢力を撃退した信長は満を持して美濃攻めを本格化させます。
名乗ったことがなかった、「斎藤義龍」が後世に伝わり、通り名になったのは、「信長公記」の影響と思われます。著者太田牛一は信長の家臣でしたので、敵対した義龍を家格的に織田家の上位として書き記すことはせず、あくまで美濃守護代家の斎藤氏を継ぐ者と位置付けたと解釈されます。
ちなみに義龍の子で信長に追放された龍興は美濃国主の頃、一色義棟と名乗っていました。
タイムトラベルで桶狭間の戦いの頃の尾張や美濃を旅したとしたら、斎藤義龍について訊いても知る者はいないでしょう。斎藤義龍という名は歴史の綾と言えるかもしれません。
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