学校に関するあらゆるニュースの「子どもがかわいそう」批判にもこれはいえる。
確かに明らかに同情すべき状況の場合が存在する一方で、想像をはるかに越える状況というのも結構ある。
誰が本当に「かわいそう」なのかは、実際その現場にいる人間でないと、わからないのである。
少なくとも、あらゆる場合において100対0という状況はほとんどない。
「教員がかわいそう」にもいえる。
実際に来て見てもらえばわかるが、どこもかしこもそんな状況なわけではない。
大変さはそれぞれだろうが、結構楽しくやっている人もかなり多い。
よく「先生って大変なんでしょ?」と尋ねられる。
本音としては、大変なのはどの仕事でも、どの生き方をしていても、きっと同じである。
仕事をしているより専業主婦(または専業主夫)の方が楽かといったら、そんな一般化できるはずがない。
楽な現場も辛い現場もあるし、楽な家庭も辛い家庭もある。
そして、状況はいつでも刻々と変わる。
「かわいそう」なのがどれかなんて、さっぱりわからないというのが現実である。
一括りにして見ないことである。
そして、他人の台所には首を突っ込まない。
見知らぬ他人に突然「キッチンの並びのここが非能率」とか批判されて嬉しい人はいない。
まして「もっと栄養バランスを考えて」「あなたの子がかわいそう」とか、余計なお世話でしかない。
これは、宗教や生き方や価値観、あらゆることにもいえる。
相手の事情を慮る。
生の体験や一次情報をもっていない場合、当事者でない場合は、口出しや判断を控える。
特に今の時代において、大切なことである。
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