「かわいそう」というのは、基本的に上から目線である。
圧倒的強者が弱者に対して抱く感情である。
突然人里に現れる熊とうっかり遭遇してしまった一般人。
人間が熊を「かわいそう」といえる状態ではない。
この状況で殺されそうでかわいそうなのは、人間の方である。
現場、現実を知らない外からの見方だと、何かやられた方に対しすぐに「かわいそう」となる。
実際は、やられた方の側が何かをした、あるいはしようとしたということは十分に有り得る。
その現場にいる当事者同士にしかわからないのである。
要は、現場を知らない場合の口出しは、ただの個人の感想でしかないということである。
ここの部分の教訓を、一般の事例や教育に当てはめて考えられる。
例えば、今ではあまりに一般的になりすぎてあまりないと思うが、かつては
「あの子、両親が離婚しているなんてかわいそう」
というのが、割と一般的な見方だった。
シングルの家庭の困難さは確かにあるかもしれないと思うが、それが「かわいそう」に直結するのは、お門違いである。
上から目線すぎる。
その状況で幸せに暮らしている事例はごまんとある。
逆に両親揃っていても(あるいは、いるからこそ)地獄という家庭はいくらでもある。
「一人っ子だからかわいそう」とかもそうだが、はっきり言って余計なお世話である。
「かわいそう」は本人が同情を求めている時以外、侮蔑のように受けとれる可能性のある要注意な言葉である。
他人の事情に対し、自分の価値観で判断して下手な口出しをしないことである。
子どもはよく同級生の子どもに対しても平気で「かわいそう」という。
これも状況によりけりだが、やたらに使うのは考えものである。
「かわいそう」といえば、その言葉によって相手は定義づけられ、本当に「かわいそうな子」になってしまう。
同級生に対し「かわいそう」と言う時に、僅かでも優越感を抱き見下すようであれば、それは教育的に見て害悪である。
口を慎むことを教えるべきところである。
「かわいそう」より「大丈夫!」と励ます方がいいことが多々ある。