あの地震が起きる前の元旦の朝、テレビでの正月番組は観ずに、たまたま次の映画を観ていた。(除夜の鐘を待たずに寝てしまうので、いつも通りの早起きなのである。)
ミセスの「Soranji」が主題歌の映画といえばわかる人がいるかもしれない。(ちなみに映画を観ると、この曲名と歌詞の意味がわかるという構造である。)
この映画における主人公をはじめすべての登場人物たちが発揮しているのが、まさにこのネガティブ・ケイパビリティである。捕虜収容所というどうしようもない絶望的状況であっても、生きることを選択する力。帰ってくるか、生きているかもわからない家族を、ただただ信じて待って生きる力。
そう考えると、このネガティブ・ケイパビリティとは、生命力そのものである。解決策が見えないままでも、絶望の中でも、見えない希望を拾い上げて生きていく力である。学校や教育の場面で多く見られる「早く」「速く」や「正解」「解決」とは真逆にある概念である。
学校教育は、生きる力を育む場である。しかしながら現実は、素早く正解を出す力が重宝され、重視されている。行き先に受験がある以上、止むを得ないことだが、本当の意味での生きていく力は、これとは真逆である。
混迷の時こそ、教育が大切である。生きる力を育むなら、逆もまた考えていけばよいのではないか。
能率よく、素早く正解に辿り着く能力。これらは、制限時間のある受験という世界で間違いなく必須の能力である。学校教育から受験がなくならない以上、ここを無視する訳にはいかないのが現実である。しかしこれと並行して、生きる力を育むこともできる。
素早く問題を解く力をつける訓練は、間違いなく必要であり、これを疑う余地はない。読み聞かせによる下地づくりにはじまり、素読や追い読み、正しく読む訓練も必要である。ただそれと同時に、じっくり待つことや、今は正解やゴールに辿り着かない、わからない状況も、認めていく姿勢が大切である。









