「弱き者の味方」と真逆の路線を走り続ける日本の恥
一方、日本の現状はどうか。筆者自身が書いたように、地方政治には、日常の問題に地道に向き合い、取り組もうとする新しい政治家が多数生まれている。しかし、単なる売名行為、単なる金儲けのための活動が増加しているのも事実だ。
「東京15区補選」のつばさの党や、「東京都知事選」の選挙ポスター問題をみると、彼らは「弱き者の味方」ではないことがわかる。つばさの党の行為は、対立する候補や政党に対する妨害行為である。自分たちよりも「強者」に挑むもののようにみえる。だが、実際は、圧力行為、言葉による暴力で怖がってしまい、政治から遠ざかるのは、候補者や政党よりも、演説を聴きたかった「庶民」のほうだ。
彼らの言葉から「庶民」に対する優しさは微塵も感じられなかった。その暴力がその場にいた自分に向けられるかわからないと恐怖して近寄らなくなった。それが、過去にない低投票率の一因となったのは間違いない。
また、東京都知事選のポスターだが、「こどもにはみせられない」内容が含まれた。また、風俗店の広告にしか見えないようなものは、女性などへの人権への配慮をあまりにも欠いていた。
かつて、自民党で「40日抗争」と呼ばれた党内抗争の激化があった。その時、自民党本部にバリケードを築いた通称「ハマコー」と呼ばれた浜田幸一という政治家がいた。ハマコーは、3日3晩考えて、集まったテレビカメラの前で反対派に訴えた。「自民党はお前たちのためにあるんじゃない。自民党はこどもたちのためにあるんだ!」と。昔の笑い話ではあるが、ハマコーでさえ、「こどもたちのため!」と叫んだのだ。
また、昔イタリアに「愛の党」を結成して国会議員となった、元ポルノ女優のチチョリーナという人がいた。半裸で演説したり、性犯罪を防ぐために「公園でのカーセックス合法化」を主張したりした。90年に湾岸危機が勃発し、多くの人がイラクで人質になった時には、「わたしがあなたの女になるから、人質を解放して!」とサダム・フセインに訴えて無視されるなど、派手な言動で知られた。だが、だが、常に「愛と平和」を訴える思想信条は一貫していたのだ。
要するに、それほど政治というものにとって「こども」「女性」など、いわゆる「弱者」は絶対的に守るべき対象であるはずだ。大衆迎合政党ならば、尚の事である。それなのに、「こども」や「女性」に寄り添うどころか、公然と愚弄して傷つけても平気だ。金儲けになればなんでもいいという考えが、これほど公然と政治の表面に出てくるのは、世界的にみて珍しい。
この現象を、「日本の恥」と批判する人は少なくない。その批判に筆者が1つ付け加えるならば、これは恥ずかしいだけではない。欧州の大衆迎合主義(ポピュリズム)とは、全く違うということだ。繰り返すが大衆迎合とは「弱き者の味方」だ。弱き者を平気で傷つけるのとは真逆だ。もしかすると日本の独特のインターネット文化が生み出した、日本発の変わった政治現象が生まれているということなのではないかと考える。
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