やりたい放題「カオス都知事選」に立命館大学教授が警鐘。NHK党の悪ノリも自民の裏金も日本国民の“写し鏡”だ

2024.06.27
 

国民が変わらなければ解決しない「本質的な問題」

政治とは、社会の中で考えや利害が異なる人たちの間に入って調整し、丸く収める生業だ。社会とは学級会ではない。単純に多数決だけで丸く収まるものではない。

表に出せない話がある。綺麗事だけでは物事は決まらない。その調整ができるのは、優れた見識を持ち、その上社会の裏も表も知り、人生の酸いも甘いも知る、人格的に完成された人物でないといけないはずだ。

これは、あくまで理論的な話と断ってはおく。だが、理論的な真面目さを保たないと、現実は複雑で、なんでもありなのだと、話のレベルが底割れしてしまう。筆者は学者なのだから、現実を理解しながらも、政治家とは「選良」であるべきだと愚直に言い続けたい。

何度でも強調するが、「選良」である政治家を「罰則」で縛るのはよろしくない。縛らなくても、犯罪と疑われるような行動をすることはない人物であるべきだ。筆者は常々、政治の問題は、国民が変わらなければ、この問題は終わらないと言い続けてきた。

例えば「政治とカネ」の問題である。政治にカネが必要なのは、政治活動にカネがかかるからだ。蓄財に励む議員がいると批判されるが、それはごく一部である。多くの議員は日常の活動のカネのやりくりに苦労しているのが実情だ。

政治活動とは、具体的には個人後援会、支援団体、その他各種団体、地方自治体、地方議会議員などとの連絡や要望等の吸い上げ、中央官庁への陳情の媒介、冠婚葬祭への出席などであった。

かつては、地元の有権者向けの国会見学や東京見物などのツアーコンダクターのようなこともしていた。現在はさすがにそういうことは少なくなったが、経費の大部分がそれらに費やされ、金額的負担も莫大であった。議員たちは、これらの利益誘導のための政治資金を確保するために散々苦労していた。その結果、さまざまな「政治とカネ」の問題が起こってきたのだ。

90年代前半に入ると、選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)や政治資金制度改革がなされ、選挙は利益誘導よりも政策を競うものに変化した。だが、それでも政治資金規正法違反が起こり続けたのは周知の通りだ。整備されたはずのルールの「抜け道」を探し、裏金作りが横行した。閣僚の辞任も常態化した。挙げ句の果てに、「パー券問題」まで発生した。

制度改革を行ったにもかかわらず「政治とカネ」の問題が続くのはなぜか。政治家が悪いというのは簡単だ。だが、より本質的な問題は「議員の地元活動」について一切是正されなかったことだ。それどころか、小選挙区制によって選挙区が小さくなったことで、議員と地元の関係はより密になった。その状況下で政治資金規正法が改正されたことで、選挙基盤の弱い国会議員は資金集めがより難しくなった。

特に非世襲や若手の議員は、政治資金のやりくりに苦しんでいたはずだ。だからこそ、派閥や地元の指示に従い、抜け道を探して裏金を受け取るなどの行為に走らざるを得なくなったといえる。

なぜ地元活動は是正されなかったかというと、「政治家は、選挙で落ちたらタダの人」だからだ。政治家が急に「国会の活動を優先する」「これまで便宜を図ってきたことをやめる」と言い出して、地元の支持層との関係性を弱めようとすると、地元の猛反発を受けかねない。集票力が一気に弱まることが懸念された。

だからこそ政治家は、この構図に問題があると痛感しつつも指摘しづらかったのだろう。政治に関心がなく、実態を知らない国民も一定数存在するため、世論が「議員の地元活動」を疑問視することもなかった。筆者が先ほど「国民にも責任がある」と述べた理由はここにある。

スキャンダルが起こる度に、国民が議員個人を徹底的にバッシングし、議員が辞任したら「撃ち方やめ」を繰り返すだけでは、本質的な問題は解決しないのだ。どうすれば政治家が地元活動に頼らず、カネのかからない政治ができるのか、国民の側も考えなければならない。

要するに、政治家を批判するだけでは不十分だ。彼らは国民をみて行動しているのだ。国民の側が変わり、毅然としてまじめに政治家を選ぶ姿勢を示さなければ、政治は変わらない。

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