ゲーム理論は元来、主流の経済学への批判という役割に注目が集まった。
80年代からは経済学の中心であり、その後社会学でも語られるようになった。
私も、非常勤で講じる社会福祉士の養成講座において、社会学の領域の中で触れているが、それは社会の在り方を表現するための手段であり、社会福祉や社会保障を苦しめる概念でもあることを説明している。
存在を否定しないものの、福祉の領域では、現在のところ相容れるのが難しいのは確か。
だからこそ、私はこうして気にしているのかもしれない。
とはいえ、この理論をここで示すのも、米国がそのゲーム理論の上に、国際関係を取り切ろうと、もしくは関心を寄せるのはやめようとの意図が強まる可能性を感じている。
もちろん、米大統領選挙で勝利したトランプ元大統領自身が、そのゲームを楽しむ、プレーヤーだからである。
そもそもが米大統領選挙そのものが、各州ごとに選挙人を奪い合うゲームだった。
米大統領選挙はより戦略的に、その選挙という戦いを勝ち抜いた時に貰える褒美を夢見る戦士たの物語でもある。
数々の作戦のバリエーションがあり得点を狙う野球は戦略的で、アメリカンフットボールも然り、どちらも米国で親しまれるゲーム。
そこに「みんなで」の要素が入ってくれば、ゲームは平和的で親しみやすく、その興奮も冷めることはない。
メジャーリーグを見る日本の私たちは米国式の個のパフォーマンスの凄さに惹かれながら、チームとしての戦略を遂行し、「みんなで協力し合う」ゲームを求めている人も多いように思う。
まさに今年のロサンゼルス・ドジャースがそうだった。
来年からのトランプ政権の取引をめぐるゲームは前哨戦が始まる。
おそらく「みんなで」を好まないのが来年からの米国のメーンプレーヤーである。
どのようなディールでゲームを仕掛けてくるのだろうか。
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