週刊文春“記事訂正”の罠にハマる中居正広とフジテレビの罪。日枝久の退陣は必然、やりなおし会見で露見した異常性

 

日枝久氏の正体。繊細かつ豪胆なテレビマンからクーデター首謀者へ

79社、4法人、3美術館で構成されるメディア・コングロマリット「フジサンケイグループ」は、フジテレビの取締役相談役、日枝久氏が代表をつとめている。

グループの大半はフジ・メディア・ホールディングスの子会社または関連会社であり、すでに相談役に退いた御年87歳の日枝氏に法的な代表権があるわけではない。それでもグループ代表の肩書を有しているのは、実質的な“支配者”であるからだ。

日枝氏は放送記者だった時期もあったが、主として編成・営業畑を歩んだ。43歳の若さで編成局長になったのは、いかつい顔に似合わぬ神経の細やかさと豪胆さを兼ね備えているからだろう。その後、社長にのぼりつめた日枝氏の不満は、当時、フジテレビ、産経新聞、ニッポン放送などの企業群を統括していたフジサンケイグループ会議議長の存在だった。

フジサンケイグループをオーナー一族が支配する構造を確立したのは鹿内信隆氏(元日経連専務理事)だ。鹿内氏は筆頭株主としてニッポン放送を支配、ニッポン放送はフジテレビの親会社となり、フジテレビは産経の筆頭株主となって、産経を支配下におさめるという図式だ。これにより、鹿内家はニッポン放送の株式さえ握っておけば、グループ全体に君臨できた。まさにメディアグループを私物化するための魔法といえた。

ところが、信隆氏の後を継いでフジサンケイグループ議長になった息子の春雄氏が急逝したことから、事態は急展開を始める。

信隆氏の娘婿、宏明氏が議長、会長に就き、グループ各社の経営計画や人事権を掌握して、独断専行、横柄な態度を見せ始めると、日枝氏は強い危機感を抱き、フジテレビはもちろん、産経新聞の役員らも巻き込んでクーデター計画を練った。首謀者は間違いなく日枝氏だった。

反乱は92年7月21日に突然起こった。産経新聞取締役会で、鹿内宏明氏は会長を解任されたのだ。これをきっかけに、宏明氏は孤立無援となりグループ議長やフジテレビ、ニッポン放送の会長職も辞任した。

これで鹿内一族によるフジサンケイ支配は終わった。その当時、産経OBの司馬遼太郎氏は「これで産経も“仲間立”の会社になれる」と私物化からの解放を喜んだものだったが、思い通りには進まなかった。

新たな支配者が、その後のフジサンケイグループを牛耳ることになる。言うまでもなく、新支配者とは日枝久氏である。その後の10年ほどはニッポン放送の大株主である宏明氏の影響力を殺ぐためニッポン放送とフジテレビの株式を上場するなど、経済合理性からいえば不可思議な戦いに明け暮れた。だが、ホリエモンによるフジテレビ買収を阻止し、長期支配の土台を固めてゆく。

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