「怒り・力」の西洋文明、「安らぎ・慈悲」の東洋文明
考えようによっては、15~16世紀のフィレンツェで芽生えたと言われる資本主義が5~6世紀を経て玉砕段階に到達した時に、その底にある岩盤的な文明要素が露出してきたと言えるのかもしれない。
環境考古学者の安田喜憲は『稲作漁撈文明』(雄山閣、2009年)で、梅原猛の『日本文化論』(講談社、1976年)を引用しながら、要旨こう述べている。
▼西洋の文明は「怒りの文明・力の文明」である。これに対し東洋の文明は「安らぎの文明・慈悲の文明」である。西洋の文明は実に戦闘的で、西洋文明に君臨するキリスト教は戦争さえ認める。これに対し、東洋の仏教は慈悲の原理に立脚する。仏教の慈悲とキリスト教の愛は異なる。慈悲は生きとし生けるもの全てにわたって平等に与えられるものであるのに対し、キリスト教の愛は自らが正しいと信ずる理念を普及するための愛である。「汝の敵を愛せよ」という主の言葉の中で、梅原先生はキリスト教のエゴイズムを見抜いていた。
▼イギリスでは農耕が伝播して以降、カンバやナラの森は一方的に破壊されていき、17~18世紀には森の90%以上が消滅した。これに対し、日本でも確かに農耕の伝播によってカシやシイの原始林は破壊されるが、その後、アカマツやコナラなどの二次林が拡大し、このためイギリスのような完全な森林破壊の段階が現出しない。
▼このようにイギリスと日本とでは、森と人間とのかかわりのあり方に、根本的な相違が見られる。その背景には、降水量や気温などの相違とともに農耕のあり方が深く関与していた。イギリスの農業は天水に依存する麦作と家畜がセットになった混合農業だった。気候が冷涼なため経営規模を拡大し、労働粗放化を進めることが、土地生産力を活用することになった。このためヨーロッパでは、飽くなき農耕地と牧草地の拡大の中で、森は一方的に減少していった。
▼これに対し、水田稲作農業を基本とし、肉食用の家畜を欠如した日本の農耕社会では、経営規模をいたずらに拡大して粗放化するよりも、労働集約的にする方が収量が多かった。急峻な地形のため水田の拡大には限界があった。そして急峻な山地に家畜を放牧するよりは、森を保存し、森の資源を水田の肥料として利用する方が、土地生産性を活用することにつながった。灌漑用水を定常的に確保するためにも、水源涵養林が必要だった。豪雨による災害を防止するためにも、森は必要だった。温暖・湿潤な気候は森の再生には好都合だった。こうして日本人は森の資源に強く依存する農耕社会を構築し、里山の森林資源を核とした自然=人間循環型社会を構築することに成功した。
▼ヨーロッパの12世紀は大開墾時代で、その先頭に立ったのはキリスト教の宣教師だった。森の闇に果敢に挑戦し、森の魔女たちと闘うことができる自然支配の闘争的精神をもった宣教師がいたればこそ、森の闇を切り開けたのである……。
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