社会全体への波及
スマホによる即時性と断片化は、個人だけでなく社会構造にも影響する。
いつもXエックスをみていて感じるが、政治的議論は短いスローガンに、教育はクイズ形式やショート動画解説に傾きつつある。
長文読解や複雑な思考プロセスが軽視されれば、社会全体が「短期的な反応」を優先する文化に傾きそうだ。
これは、民主主義や公共性の基盤を揺るがすかもしれない。
市民が熟考を放棄し、刺激的な情報だけを選び取るようになれば、政治も市場も「目先の満足」を追う方向に流れていくだろう。最近、娘に、「とにかく読書しなさい」とつい、言ってしまうのは自分の潜在意識が無意識に、「このままではマズイ!」と叫んでいるからだと思う。
もしすべての重要な政治判断が、発表から48時間は議論期間を設けてから投票される仕組みだったらどうだろう?
短絡的な決定が減り、情報精査や対話が促される可能性は高まる。スマホ的即時性の対極にある制度だけど、これが社会の熟考力を守る手立てになり得ると感じる。
スマホとの関係を再定義してみよう
かといって、スマホは悪ではない。
問題は、その使い方と距離感である。僕らが主体的に選んで使えば、スマホは人間性を拡張する心強いツールになり得る。
しかし無意識に使われ続ければ、思考・倫理・身体性が蝕まれていくだろう。当院にやってくる患者さんを見ていれば、必ずといっていいほどスマホによる無意識の緊張が身体に表れている。
実践として、特に大切だと感じる項目を4つ挙げてみた。
1.デジタル断食→毎日30分~1時間、スマホを完全に手放す時間を設ける
2.逆フィードの導入→あえて異なる価値観の情報源を探す
3.身体感覚の回復→対面の会話や自然の中での時間を意識的に増やす
4.遅延思考→感情的なメッセージは送信前に一度保存する
最後に……海を泳ぐ知恵
スマホは僕らの生活を飛躍的に便利にしたけれど、その便利さは人間らしさの代償と背中合わせである。
深い思考、倫理的熟慮、身体感覚は、一度衰えても意識的に鍛え直すことができる。
重要なのは、スマホの海に流されるのではなく、その上を自由に泳ぐ術を身につけること。
哲学者パスカルは「人間の不幸は、ひとりで静かに部屋にいられないことから始まる」と述べた。静寂や退屈を恐れず、その中に身を置く勇気こそが、僕らを深く、広く、生きた存在へと戻してくれる。
そして、ソクラテスが言ったように「吟味されざる生は、生きるに値しない」。スマホに向ける時間の一部を、自分自身を吟味する時間に置き換えること。
それが、テクノロジーと共存しながら人間らしさを守る、現代における新しい知恵なのではないだろうか。
僕らは、道具に支配される存在ではない。自ら選び、操る主体である。これは絶対に忘れてはならない。
参考図書
「スマホ時代の哲学 なぜ不安や退屈をスマホで埋めてしまうのか 【増補改訂版】 (ディスカヴァー携書) 」著者:谷川嘉浩
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