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ソ連に戦いを挑み領土を奪い取った中国の図太い神経

また同年、中国はチベットをめぐりインドと武力衝突しましたが、ソ連は中立の立場をとりました。ソ連が支援してくれると思っていた中国は、あてがはずれました。それやこれやで中国とソ連の間は急激に悪化していったのです。そして、60年代になると、中国とソ連は、武力衝突までしてしまいます。

中国とソ連は、かねてから国境問題がありました。仲が良いときには、その問題は棚上げされていましたが、仲が悪くなるとそれが再燃してきたのです。

中国とソ連(ロシア)が、近代的な意味での国境線をひいたのは1858年から60年にかけてです。このとき中国とソ連(ロシア)は、北京条約という条約を結び、一応の国境線を確定しました。

しかし、当時の中国は清の末期。アヘン戦争に負けたばかりのときです。清としては、ロシアに対してあまり強く発言できませんでした。もちろんロシアがそこにつけこんだ面もあります。だから、中国側としては、このとき決められた国境は不公平という気分をずっと持っていたのです。

それからすぐに、ロシアで革命が起き、ソ連という国ができます。それ以降、第二次大戦が終わるまでは、中国とロシアの国境付近には日本が進出し、ロシアの領土に深く食い込んでいました。そのため中国とソ連は、直接、対立することはありませんでした。

しかし、第二次大戦で日本が敗北することにより、中国とソ連が直接、対峙することになります。中国にしてみれば、清末期のどさくさの中で、決められた国境線には不満があったのです。

当時、中国とソ連には国境問題がありました。中国、ロシアの国境の半分は河川で引かれています。アムール河、ウスリー河などです。

この大河の中には、島が2,500個近くもあるのですが、ソ連はこの島々のほとんどを我が物にしていました。

通常、河川を国境とする場合、河川自体も半々で領有することになっています。だから、河川の中にある島も、半分ずつ領有するのが基本です。

中国はたびたび「河川の中の島を半分渡してくれ」とソ連に打診しましたが、ソ連は受け付けませんでした。業を煮やした中国は1969年3月、ウスリー河に浮かぶ珍宝島を強襲したのです。それを皮切りに中国とロシアの国境全体で小競り合いが起こりました。

このとき、ソ連も中国も核兵器を持っており、もし両国が本気で戦い始めれば、核戦争に発展するおそれもありました。もちろん人類絶滅になるようなことは、どちらも望んでおらず、結局、ソ連が珍宝島ほかを諦めて、なんとか事は収拾したのです。

それにしても、当時のソ連というのは、共産圏の親玉でありもっとも勢力を持っていたときです。アメリカに匹敵する軍隊、核ミサイルを何万発も持ち、泣く子も黙る超大国でした。アメリカをはじめとする西側諸国も、ソ連とだけは直接戦争をしないように、神経をすり減らしていたわけです。そんな強いソ連には戦争を仕掛ける国などはいませんでした。

中国は、そういうソ連に戦いを挑んで、しかも領土を奪い取ったのだから、その神経の図太さには、目を見張られます。

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