アメリカにとって「渡りに船」だった中国の方向転換
このソ連と中国の関係悪化により、中国は西側諸国への接近を探り出します。まだまだ発展途上国だった中国は、ソ連の支援がなければ近代化はできませんでした。しかし、ソ連の支援はもうあてにできません。そのため、西側諸国、特にアメリカの支援を受けようと考えたのです。
当時、アメリカは、ベトナム戦争の泥沼にはまっており、中国の方向転換は渡りに船というものでした。そのためアメリカは、中国への経済制裁を徐々に緩和していきました。1969年には、アメリカ人の中国渡航制限が緩和され、アメリカから中国への非戦略物資の輸出制限が取り払われ、中国製品の輸入制限も緩和されました。
中国(中華人民共和国)という国は、建国以来、アメリカなどの西側諸国からは国として認められていませんでした。西側諸国は、台湾の国民党政府と国交を結んでいました。だから台湾国民党政府が中国を代表する政府であり、一国に二つの政府は認められない、という姿勢をとってきたのです。
中国本土では、共産党政府が政権を握っており、国民党政府は台湾だけしか統治していないにもかかわらず、西側諸国にとって「中華人民共和国」は存在しないものと扱われていたのです。もちろん、西側諸国は、中華人民共和国とは国交を樹立していませんでした。
しかし、中国のこの方向転換により、西側諸国も中国との国交樹立を模索し始めました。そして1972年に、西側諸国で最初に中国と国交を回復したのは、日本なのです。
その後、堰を切ったように西側諸国と中国の関係回復が図られます。その年、アメリカのニクソン大統領の中国を訪問し、国交樹立に向けて動き出します。1979年には、ついにアメリカと中国の国交が樹立し、ほぼ同時期に中国は改革開放政策に乗り出すのです。
このとき、アメリカは、アメリカ国内の中国人資産8,050万ドルの凍結を解除し、中国はアメリカから請求されたアメリカ人の中国資産1億9,680万ドルのうち8,050万ドル分の返還を行ないました。
つまりは同額の返還で手を打ったのであり、戦前の貸し借りはチャラということになったのです。
が、アメリカが中国国内に持っていた資産の方が、中国がアメリカ国内に持っていた資産よりも大きかった(約2倍)ので、アメリカが損をしたということなのです。それだけの損をしても、アメリカにとっては中国との国交樹立は大きなものでした。なにしろ、共産主義陣営の大きな一角が崩れるわけだからです。
この10年後にソ連・東欧の共産主義陣営は崩壊しますが、この中国の離脱も大きな要因になっているといえます。中国は、アメリカと国交樹立して以降、急激な経済発展をし、それは東側陣営の経済停滞をより際立たせるものとなったからです。
日本の手引きで世界と経済交流できるようになる
中国の改革開放政策や、西側陣営との経済交流に、非常に大きな役割を果たしたのは、日本です。前述したように、日本はアメリカよりも一足早い、1972年に中国と国交を回復しました。
日本と中国の間には、厄介な問題がいくつも横たわっていました。その最大のものが賠償問題です。
日本と中国の戦後賠償は、台湾国民党政府の間で交わされた日華平和条約により、「中国側が賠償請求権を放棄する」ということになっていました。しかし、中国大陸で政権を樹立した中国共産党政府は、これに反発し、賠償請求権を主張し続けていたのです。
が、1972年の国交交渉の際、中国側は賠償請求権を放棄しました。その代わり、日本は経済援助をするという暗黙の了解があったのです。この日本の経済援助が、中国の近代化に大きく役立ち、改革開放政策を成功させた要因の一つとなったのです。
この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう
※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます









