やりたい放題の「成金」状態。中国を“怪物国家”に育ててしまったお人好し国家ニッポンの重い責任

 

戦後の中国に対して最大の援助をしてきた日本

またその後の中国の改革開放政策に対し、日本は水先案内人のような役割をしています。国交を回復した日本と中国は、すぐに経済面での協力を開始しました。

広大な土地を擁し、潤沢な資源が眠る中国には、日本の経済界も強い関心を持っていました。1978年には、上海宝山製鉄所プラントの建設に、日本企業が参加することになりました。

が、当時の中国は、経済力がまったくなく、財政規模も小さかったのです。中国が、改革開放路線を敷いた1978年当時、中国が想定していた主な輸出品は、石油、石炭などのエネルギー資源でした。

現在でこそ、中国は大量のエネルギー輸入国となっていますが、当時はまだエネルギー資源は他国に輸出するほどあったのです。というより、欧米に比べて工業化が遅れていた中国は、エネルギー資源くらいしか売ることができなかったのです。

しかも、そのエネルギー資源を売ることもままなりませんでした。当時の中国は、エネルギー資源の開発もまだ緒についたばかりであり、輸送する鉄道、港湾施設などの整備もされていなかったのです。

また1972年の日中国交回復から1980年までの間で、日中の貿易額は8倍に増えましたが、その内訳は中国の大幅な貿易赤字でした。中国の日本に対する貿易赤字額は71.57億ドルにも達していました。

対日本のみならず、欧米との貿易においても、中国は赤字が蓄積していました。1978年から1980年までの3年間で、44.43億ドルの赤字累積となっていたのです。現在とは、まったく逆です。改革開放したばかりの中国では、農産物などが主な輸出品であり、不可価値が低かったのです。

中国側も、産業の遅れは重々自覚しており、1976年には、国民経済発展10か年計画を発動していました。これは10個の大石油基地、10個の大鉄鋼基地、9個の工業基地をつくるという計画でした。

しかし、この計画を遂行するには、欧米から莫大な額の技術やプラントを導入しなければなりません。が、当時の中国は、前述したように、改革開放以来、急激に貿易赤字が膨らんでおり、外貨準備高が激減していました。

1979年には8.4億ドルだった外貨準備高は、翌1980年にはマイナス12.96億ドルになっていました。つまり、工業発展のための施設を整えたくても、お金がなくて整えられないという状況だったのです。

それを見かねた日本側は、日本政府からの円借款、経済技術協力を要請したらどうか、と持ちかけました。中国側は、資本主義国からお金を借りたり、技術支援を受けたりすることに抵抗があり、若干の逡巡もありました。それまで中国共産党は、「借金をしない国家財政」を誇りとしていました。

欧米の近代国家は、内外からお金を借りて国家運営をしています。そのために、財政危機になったり、他国の経済侵攻を招いたりもすることもあります。

中国の共産党は、そういう近代国家の弊害である「借金財政」をしない、としてきたのです。だから、日本からお金を借りるということについては、釈然としない部分もありました。

が、時の指導者、鄧小平が決断し、日本に円借款の要請を行ないました。その結果、1979年から、日本の円借款、経済技術支援が本格的に始まります。

この年、「石臼所港建設」「北京~秦皇島間の鉄道拡充」など中国の6つのプロジェクトに、500億円の円借款が行なわれました。これを皮切りに、日本は中国へ多額の支援を行ないました。戦後の中国に対して、最大の援助をしてきたのは、日本なのです。

また日本の無償援助により、近代的な病院を建設することも決められました。これは、「中日友好病院」として、1984年に北京に開院しました。最新鋭の設備を持ち、建築面積18万平方メートル、ベット数1,500という大病院です。日本の慶応大学病院よりもはるかに大きいのです。

この中日友好病院は現在でも、中国医療の中枢機関としての役割を担っています。

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

print
いま読まれてます

  • やりたい放題の「成金」状態。中国を“怪物国家”に育ててしまったお人好し国家ニッポンの重い責任
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け