学校教育のあり方を変えるのが先では?
日本の教育システムは、ひたすらインフォメーションを詰め込んで、誰もが皆と同じ最低限の知識だけは身につける(例えば極端な話、重要な年号を暗記して受験に備える!)ことを求めるばかりで自分の頭で考えて他の誰も思いつかないような独創的な発想に立ち至ったり、思考が突然変異を起こして飛び跳ねたりすることを推奨していない。
例えは悪いが、巨大鶏肉工場で鶏が身動きも出来ない狭いケージに閉じ込められて配合飼料と成長促進剤と抗生物質を口に押し込まれるようなやり方が、100年も続いてきた。
欧米では、例えば英国の私立学校に息子を通わせた知人から聞いた話だが、ある学年に達すると夏休みに提携先の仏アルザス地方に短期交換留学する制度があり、それに備えて何でもいいから自分でリサーチしてテーマを見つけ、それを持ってアルザスを訪ねなさいと指導される。そのテーマが今までに前例がないユニークなものであったとすると、その生徒は物凄く褒められて英雄扱いさえされるのだという。
もう一つ、米ハーバード大学のビジネス・スクールで教えたことがある教授から聞いた話では、2年間でMBAを取得する修士コースの場合、2年生に上がるスクリーニングで篩い落とされる比率は日本人学生が一番多いという。一流の国立大学を出て一流の官庁や企業に入って将来のリーダーとなることを嘱望されるエリートが派遣されて来ているはずなのに、どうしてなのか。
彼らは詰め込み式のインフォメーション教育は潜り抜けて来ているから、例えば明日の授業のテキストとなる某経済学者の本があるとして、そこにどういうことが書いてあるかを理解し、要領よく頭に叩き込むことは得意なのだが、実際の授業ではいきなり「この先生の学説が正しいとして、これで先週来のNY株価の暴落を説明できると思うか?君の意見はどうだ?」という具合に始まってしまう。
超応用問題のインテリジェントな議論に噛み込んで、少しは気の利いた考えを披露して講師やクラスの仲間を「ホ、ホーッ」と思わせることが出来ないのなら、俯いて聞いているだけということになる。
欧米ではそのように、小中学校の頃から自分なりの見識を築いて人前で堂々と述べることが推奨され、大学、大学院の高等教育ともなれば専らインテリジェンス能力の研鑽に集中する。
日本は今なお文化的にはまるっきり発展途上国なので、大学に入ってさえもまだインフォメーション授業が平気で行われている。そこから何とかしないと、政府機関の部屋の看板を掛け替えただけでインテリジェンスが生まれると思ったら大間違いである。
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