【対中国戦略】ソ連冷戦の歴史から日本の取るべき道を学ぶ

© nazlisart - Fotolia© nazlisart - Fotolia
 

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』2015年3月1日配信号より

■1.共産中国への対処法をソ連崩壊の歴史から学ぶ

共産中国がチベット、ウイグルの人民を弾圧し、土地を奪い、資源を収奪している。同時に南シナ海や東シナ海で海上覇権を狙って、ベトナム、フィリピン、そして日本と摩擦を繰り返している。

アメリカはグアムまで後退するシナリオも考えているようだが、そうなるとわが国は「中国の海」に浮かぶ孤島となり、日本国民を待ち受けているのは、チベット人やウイグル人のような悲惨な運命である。

これが現代日本の直面する最大の問題であるが、これに対する対処法を我々は歴史から学ぶ事ができる。中国がやっている事は、かつてのソ連の勢力拡張と同じである。しかし、日米欧の西側諸国は団結してソ連を崩壊させた。

ソ連がどのように勢力を拡張し、それをいかに西側諸国が打倒したのか、今回はその軌跡を辿ってみよう。

■2.アジアにおける「ドミノ現象」

アジアにおける共産主義陣営の勢力拡張を許したのは、国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争の3つの戦争である。この3つの戦争により、中国大陸から北朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオスまで共産圏の手に落ちた。

一国が共産化すれば、周辺諸国が次々と共産化していく有様は「ドミノ現象」と呼ばれた。まさに一列に並べたドミノ牌が次々と倒れていくように、「ドミノ現象」がアジアでも起こっていた。

国共内戦については弊誌441号「中国をスターリンに献上した男」で詳細に述べた。ソ連スパイの暗躍した当時の民主党政権下で、陸軍参謀総長、国務長官を歴任したジョージ・マーシャルが蒋介石政権への支援を妨害し、中国共産党の勝利を助けたのである。

■3.民主党政権が招き、勝利寸前で投げ出した朝鮮戦争

朝鮮戦争のきっかけは、1950年1月12日、マーシャルの副官で、後任の国務長官となったディーン・アチソンが、「アメリカのアジア地域の防衛線には南朝鮮を含めない」と発言したことだった。

韓国は共産陣営に侵略されてもアメリカは関与しない、というメッセージの5ヶ月後に、北朝鮮が38度線を越えて南侵を開始した。ダグラス・マッカーサー率いる国連軍が反撃して、北朝鮮と中国の国境である鴨緑江まで到達した処で、中国軍が参戦した。

マッカーサーの鴨緑江を越えて戦うという主張で、中国との戦争を恐れたトルーマン大統領は、マッカーサーを解任した。アン・コールター女史の『リベラルたちの背信 アメリカを誤らせた民主党の60年』は、こう述べている。

マッカーサーの解任でアメリカ国民の盛りは爆発した。トルーマンの逃避政策にはうんざりだった。全米各地でトルーマンの人形に火が放たれ、国際港湾労励者組合はマッカーサーの解任に抗議してストライキを決行した。

帰国したマッカーサーがサンフランシスコの空港に降りたつと、空蕗から市街まで沿道を埋めつくした五十万人が、英嘩の帰還を出迎えた。ニューヨーク市では七百万人が紙ふぶき舞う大パレードに参加し、マッカーサーに歓声を送った。第二次大戦後にヨーロッパから帰国したドワイト・アイゼンハワーを迎えた数の二倍もの人出だった。

ギャラップ世論圃査によると、国民の66パーセントがマッカーサー解任に不満だった。
(『リベラルたちの背信 アメリカを誤らせた民主党の60年』より)

結局、民主党のトルーマン政権は、北朝鮮に侵攻の機会を与えて朝鮮戦争を招き、戦争勝利の可能性を自ら放棄して、現在の38度線の膠着状態に戻しただけに終わった。

■4. 民主党政権がベトナム戦争を始め、南ベトナムを献上した

ベトナム戦争を始めたのも民主党政権だった。ケネディ大統領はキューバの解放を目指す反革命軍をピッグス湾に侵攻させたが、米軍による航空支援を自ら禁じたため失敗。

ソ連は報復としてキューバに核を送り、核戦争寸前までいった。キューバ危機は回避できたが、そもそも、この危機はケネディ政権の及び腰のキューバ侵攻が生み出したものだった。

キューバでの汚名を晴らそうと、ケネディは北ベトナムの攻撃にさらされていた南ベトナムに米軍を送り、ベトナム戦争を始めた。ケネディ大統領が暗殺された後、政権を引き継いだジョンソン大統領は、十分な兵力の投入が必要とする軍部の進言を拒否し、限定的な爆撃作戦に固執した。

当時の米国内の世論を、アン・コールター女史はこう述べる。

左派が戦意をそごうと執拗に努力したにもかかわらず、アメリカ国民の大半は一貫してベトナム戦争を支持していた。反戦運動が国を席巻したという神話など、愚の骨頂である。・・・

ベトナムからの撤退直前まで、この戦争に反対するアメリカ人は20パーセントに満たなかった。・・・

ベトナム戦争の指揮のまずさが禍して、ジョンソンの再選運動は始まる前に終わっていた。ニューハンプシャー州の予備選が惨憺(さんたん)たる結果だったため、大統領選から身を引いたのだ。不支持層は支持層の2倍にのぼった。ベトナム戦争にもっと強硬姿勢でのぞむべきだという理由からだった。

ベトナム戦争を「名誉あるかたちで終わらせる」と公約して、政権をとった共和党のニクソン大統領は1973年1月のパリ協定で停戦を実現した。その停戦協定を北ベトナム側が破ったら、アメリカは北への爆撃を再開し、南ベトナムを援助する、という歯止めをニクソン大統領はかけていた。

しかし、同年6月に、ニクソン政権が民主党本部に盗聴装置をしかけたと疑われたウォーターゲート事件が起こり、その渦中で議会側が、爆撃再開には議会の事前承認がいると要求した。この時とばかり北ベトナムは停戦協定を破って数ヶ月のうちに南に侵攻した。

さらに民主党の支配する米議会は南ベトナムへの援助をすべて拒否した。アメリカに見捨てられた南ベトナムは、北ベトナムに征服された。

結局、ベトナム戦争は民主党のケネディ政権が始め、そして民主党の議会が南ベトナムを見捨てて共産側に差し出したのである。

≪続きを読む≫

 

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

KIRINまぐまぐニュース!」の最新更新情報を毎日お届け!
マスメディアには載らない裏情報から、とってもニッチな専門情報まで、まぐまぐ!でしか読めない最新情報が無料で手に入ります!規約に同意してご登録ください!

print
いま読まれてます

  • 【対中国戦略】ソ連冷戦の歴史から日本の取るべき道を学ぶ
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け