台湾人が問う、日本の「植民地支配」は本当にあったのか?

台湾人が問う、日本の「植民地支配」は本当にあったのか?
 

いずれにしても、下関条約後、台湾経営のために設立された「台湾事務局」(局長は伊藤博文)において、この「台湾植民地論争」が大いに議論された。以来、この論争の参加者は日本政界の大物、帝国議会議員、日本政府関係者、憲法学者、植民地学者、ジャーナリスト、台湾知識人など広範囲にわたって繰り広げられた。つまり、過去半世紀(1895~1945)にわたる日本の台湾統治は、決して「日本帝国主義下の植民地支配などと一言で語り尽くされるべき単純なものではないのだ。

それでも、日本の50年間にわたる台湾統治について「結局結論はどうなのか」と問われたならば、私は、日本は台湾に対して「植民地統治をしていなかったと答えるだろう。私のこの結論は、台湾総督府の治績による結果からではなく、日本人の台湾に対する領土観から言っているのである。

当時の伊藤総理は、台湾経営については、樺山資紀初代台湾総督に「しっかりやれ」と激励したのみであり、「植民地経営」の方針や政策については何ひとつ指示しなかった

やがて第4代総督・児玉源太郎の時代(明治31年~明治39年)になると、民政長官に後藤新平が就任したこともあって、「植民地経営的な色彩を帯びてくるようになる。そのことは、持地六三郎の『台湾植民政策』でも指摘している。後藤の「植民地政策」は、先に述べたようにイギリスを範としたもので、台湾の慣習に従いながら文明開化、殖産興業を具体的に推進していった。また、後藤は植民地論争を避けるために、教育については「無方針」政策を取っていた。

これ以降、7代目総督までは、たしかに「植民地的色彩」を持っていたことは否定しない。しかし、台湾の法体系から実質近代化策を見るかぎり、ことに第8代総督・田健治郎の時代(大正8年~大正12年)からは、原敬の「内地延長」思想がすでに台湾経営の主流となっており、台湾はむしろ日本の植民地を否定する近代国家建設の方向へと向かっていた。

そして第18代目の長谷川清総督時代(昭和15年~昭和19年)には、皇民化運動や徴兵制などが行われ、帝国議会議員選挙が予定され、完全に「植民地」の色彩はなくなって「日台一体がほぼ達成されていた。台湾は、九州や四国と同様に、日本内地の延長として扱われていたのである。多少伏流のあった時期もあるが、結果的には台湾は内地延長主義型経営を主流に行われたのである。

つまり、台湾は日本の植民地ではなかったということだ。それが台湾近現代史の正しい歴史認識であるということを、この連載を通して少しでも認識していただきたいと思っている。

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