日本人は列の最後に並ぶ。なぜ外国人は、この「常識」に憧れるのか?

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控えめで自己主張が苦手な日本人は様々な思想や人種が混在するグローバル化時代において「不利」というイメージを持たれがちです。しかし『メルマガ「ニューヨークの遊び方」』の著者りばてぃさんによると、グローバル化時代の縮図ともいえるニューヨークで生活する人々にとって、日本人の国民性は「理想像」なのだとか。りばてぃさんは、日本にいるとなかなか気づけない「日本人の国民性の素晴らしさ」を紹介し、日本人はもっと自信を持つべきだと主張しています。

優しさと強さも・・・

多様で異なる文化や価値観が集まっても、ニューヨークがバラバラでメチャクチャになったり、争いごとが起こったりせず、みんなで協力して、地域全体の魅力をガンガン高めてる理由は何だろうか?

それは、特定の文化や価値観や慣習にしばられるのではなく、「人間としてどうか?」という判断基準で考え、動く人が増えていくから・・・。

10人集まったら10人とも異なる文化・民族出身者ということも珍しくないニューヨークでは、形式ばった特定の文化のシキタリをいちいち他のみんなに説明し、理解を求めてる時間はない。だから自然に、できる限り分かりやすく、誤解の生じない表現をするようになる。

ここでいう誤解の生じない表現というのは、シンプルでありながらも、多面的に説明すると良いだろう。必要であれば、何度も説明するのも良い。

すると次第に、日々の言動の判断基準は、「人間としてどうか?」になってくる。

「人間らしく生きる」ことが規範になる。だいたいこれが一番上手くいく。なぜなら、みんな人間だから・・・。

でも、ここで1つ素朴な疑問を感じる方もいるだろう。

「人間としてどうか?」という判断基準自体も、結局、その人の持つ文化や価値観によって決まってくるのではないか?という疑問だ。

多様な文化や価値観が集まる街では、「人間としてどうか?」という判断基準も、さらに、いわゆる「優しさ」や「強さ」も、もともと、その人の持っている文化や価値観によって決まってくるのかもしれない。

日本のように人口の98%が同じ文化や価値観を共有する(と考えられている)日本人の場合、「人間としてどうか?」という判断基準や、「優しさ」や「強さ」もある程度決まったものに収まるが、多様な文化や価値観が集まる街ではどうなるのか?

もっと言うと、多様な文化や価値観が国境を越えて交流するグローバル化時代では、どうなっていくのか?

人々は、何に対して価値や意義を見出すようになっていくのか?

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