日本人は列の最後に並ぶ。なぜ外国人は、この「常識」に憧れるのか?

 

震災後に世界中に絶賛された日本人

東日本大震災や熊本地震でも、お互いを支えあい、助け合う日本人の姿は世界中に報じられ、大きな感銘を呼んだ。

略奪するのではなく、崩壊したお店の前に作られた架設のレジの前に、ちゃんと並んで商品を買う日本人。

地元の体育館などの避難所でも、見事に秩序は保たれ、子どもや女性などの弱い人々をみんなで守る姿。

他にもたくさん、そうした日本人の国民性の素晴らしさが報じられた。

また、ニューヨークでは、日本のための様々な募金や支援活動が爆発的に巻き起こり、街角のあらゆる場所で、ものすごい数の日本のためのチャリティー・イベントが登場した。

その募金活動の現場では、日本人、アメリカ人を問わず、大人も子どもも一緒になって、We love Japan、Hope and Loveなどと書かれたボードを掲げた・・・。

こういうエピソードもいっぱいある。

何でもそうだが、ある物事を高く評価する人は、そのことについて日頃から高い関心や興味を持つ。

例えば、野球のあるプレーを素晴らしいと絶賛する人は、必ず野球に詳しい人だ。野球に興味がない人があるプレーを褒めたりしない。

将棋や囲碁の一手を素晴らしいと絶賛する人も、やはり将棋や囲碁に日頃から高い関心がある人だ。将棋や囲碁のルールすら知らない人は、どんな素晴らしい一手でもその価値を理解できない。

近現代アートの世界では、これが本当にアートなのかと不思議に思うような作品もある。

マルセル・デュシャンの「泉」(fountain)という作品(1917年制作)は、市販の便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」とサインしただけ。

でも、1999年11月、ニューヨークのオークションハウス「サザビーズ」(Sotheby’s)に出展されたそのレプリカには170万ドルもの値がついた。もちろん、買ったのはアートについて日頃から高い関心や興味を持っている人だろう。

あの震災後に、助け合い、支えあう日本人の国民性を絶賛した人々も、間違いなく、日頃から、そうした「人間らしい生き方」に高い関心や興味がある。その価値や意義を知っている、というワケだ。

だからこそ、ニューヨークでは、日本のための様々な募金や支援活動が爆発的に巻き起こったのだと思う。

つまり、多様な文化や価値観が共存する社会では、あの震災の後に日本人が見せた日本人の国民性は、誰もが抱いている理想の姿なのだと思う。

日本人と同じように助け合い、支えあい、他人であっても信頼して任せる文化のあるアメリカ人にはもちろんのこと、もともとは自分のことしか考えないエゴイスティックな文化で育った人々にとっても、「理想像」になってる気がする。

いや、むしろ、もともとは自分のことしか考えないエゴイスティックな文化で育った人々にとっては、その呪縛を解くための「理想像」として、日本人の国民性はよりいっそう高く評価されるかもしれない。

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