福井の家族愛
弊誌でも「学力・体力日本一 ~ 福井県の子育てに学ぶ(上・下)」で取り上げた福井。その秘密は、三世帯同居が多く、祖父母も含めた家族愛のもとで、子供たちが伸び伸びと育てられている、という点にあった。私見だが、「家族愛」が土地の遺伝子となっているのではないか。
白駒さんの本では、柴田勝家とお市の方の夫婦愛が語られている。お市の方は、夫・浅井長政が織田信長に滅ぼされ、3人の子供と共に越前北の庄に居城を構える柴田勝家の許に嫁入りする。60代の勝家とは二回り以上も年が離れ、かつ家庭生活は1年足らずだったが、仲睦まじかったと言われている
勝家は、秀吉軍に攻められて最期を迎えるが、お市の方も運命を共にする。「きっと2人は、心の深い部分でつながっていたのではないか」と白駒さんは言う。
幕末の橘曙覧(たちばな・あけみ)は、家族愛を素直に歌い上げた福井の歌人である。『独樂吟』では次のような歌がある。
たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどい頭ならべて物をくふ時
たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時
ポーランド孤児とユダヤ難民を温かく受け入れた愛情
こういう家族愛の豊かな土地だからであろう、シベリアから孤児や難民が敦賀港に辿り着くと、人々は温かく迎えている。
20世紀初頭、シベリアに流刑となったポーランド独立運動家たちの子供が饑餓に瀕していた。救援の要請を受けた日本赤十字は765人の孤児をウラジオストックから敦賀港に運んだ。
敦賀港についた孤児たちは、食事と衣服ばかりか、おもちゃまで支給され、急速に元気を取り戻し、横浜港から日本船でポーランドまで送り届けられた。
同様の光景は、30数年後にくり返された。映画にもなった杉原千畝の「命のビザ」を得た6,000人のユダヤ人たちはシベリア鉄道でウラジオストックに着き、そこから船で敦賀港に入った。人々は果物やふかしイモを差し入れしたり、銭湯に入れさせたりした。
ポーランドの孤児やユダヤ難民たちを、温かく受け入れたのも、福井が家族愛を遺伝子とする土地柄だったからではないか。