お土地柄は人柄から。郷土愛の遺伝子が歴史上の偉人を生み出している

 

金子堅太郎、明石元二郎、広田弘毅の奉公

商人の町だった博多に、江戸時代に入ってきたのが、NHKの大河ドラマとなった『軍師官兵衛の嫡男・長政(ながまさ)だった。長政は博多の商人の町を守るように福岡城を作った。「民の誇りを守り、そのために町づくりを行った。そこに黒田家の器の大きさがあり、叡知があったと思うのです」と白駒さんは指摘する。

黒田家は幕末には幕府との協調路線をとり、藩内にいた攘夷派の志士たちを激しく弾圧した。西郷隆盛とも親交のあった平野国臣(くにおみ)も命を落としている。そのために人材不足となり、薩長政権に顔のきく人もいなくなった。

こういう状況で、当時の藩主・黒田長溥ながひろは人材育成に力を入れる。これによって明治以降、福岡県は国家を担う人材を輩出するようになる。

金子堅太郎(1853~1942)は、日露戦争に際して、ハーバード大学でルーズベルト大統領と同窓だった、という縁を生かして、アメリカで多くの講演や記事執筆を通じて親日世論を盛り上げた

明石元二郎(1864~1919)は、同じく日露戦争時にレーニンなどに資金援助をして、ロシア帝政に対する反乱を煽った。ロシア皇帝は足元に火がついて、対日戦争を続けることができなくなり、そこに金子堅太郎の世論工作で親日的になった米国が調停に乗り出したのである。この二人の活躍がなければ、日露戦争はどういう結果になったか分からない。

先の大戦前の困難な時期に、外相総理大臣を務めたのが広田弘毅である。外相としては対支平和外交を推進し、2.26事件の後は首相として農村の生活安定、母子保護法など、地道な社会安定策に取り組んだ。

「国防の基準」を設定して軍事費の膨張に歯止めをかけたが、これが東京裁判で侵略のための「共同謀議」と曲解されて、文官でただ一人、「A級戦犯として絞首刑になった。裁判では自己の弁護は一切しなかった。

外交官として戦争を止められなかった事を自分の責任として、淡々と絞首刑を受け入れた。

金子堅太郎、明石元二郎、広田弘毅と並べてみると、共通の特長が見えてくる。学業に励んで、自らの実力のみで頭角を現し、しかも名利も求めず、国家と時代が必要とする任務を淡々と果たす、という奉公の姿勢である。

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