お土地柄は人柄から。郷土愛の遺伝子が歴史上の偉人を生み出している

 

山形・庄内の「報恩」

山形・庄内は徳川の譜代筆頭・酒井家が江戸時代を通じて藩主を務めた。酒井家は今も残っていて、庄内の城下町では酒井家当主を見かけたら、市民が「とのさま~」と手を振るという。

白駒さんは、この酒井家と福岡・柳川の立花家とが「地元の人々からこれほどまでに愛されている家系は、ほかにないのではないか」と感じたそうである。そして、この地の人々は「恩を感じるセンサー」を備えている、という。

徳川家康が織田信長に仕えていた頃、家康の長男・信康(のぶやす)が信長から謀反を疑われた。信長から呼び出されて事情聴取を受けた家康の筆頭家老・酒井忠次は十分な申し開きができず、結局、信康は切腹を命じられる。

家康が天下を取って、酒井家は家格に見合った庄内13万8,000石を与えられる。しかし、庄内は米どころで実高20万石とも30万石とも言われる豊かな土地である。他の家臣が、信康様を死に追いやった酒井が、なぜこれほど優遇されるのか、と不満を募らせたが、家康は「ここまですれば、酒井も謀反を起こさないだろう」と言って、不満を抑えた。

この恩を感じとったのだろう、酒井家は江戸期を通して善政を施し、困窮した農民の借財を免除したり、飢饉の際には備蓄米を放出して領民を救った。こうした善政により、天保11(1840)年に幕府から領地替えの話が出た時に、領民は江戸まで出向いて転封取り下げを直訴した。

普通、領民の直訴と言えば藩政の非を訴えるものだが、前代未聞の藩主擁護の直訴を幕府役人は賞賛して、転封の話を撤回した。この報恩の義挙により、酒井家は転封することなく、江戸時代を通じて庄内藩を治める事ができたのである。

報恩の美しい逸話かずかず

幕末の戊辰戦争では、酒井家は徳川恩顧の譜代大名として、会津藩とともに奥羽越列藩同盟を結んで、新政府軍と戦う。会津藩は見事な武士道を見せたが、悲惨な戦いの末に降伏する。

しかし、庄内藩は連戦連勝、新政府軍を領内に一歩も入れなかった。これは酒田の豪商・本間家が庄内藩を全力をあげて支援して世界の最新兵器を供給していたからだ。

本間家は江戸期を通じて、酒井家を支えた。第7代藩主・酒井忠徳の時に借金が20数万両にも膨らんだ際にも、当主・本間光丘が藩財政立て直しを委任され、藩士や領民の借財を自ら肩代わりし、また飢饉に備えて備蓄米を蓄えた。酒田の豪商としてやっていけるのは、酒井家のお陰と恩に感じてここまで藩を支えたのだろう。

戊辰戦争で降伏した庄内藩に進駐してきたのは、薩摩藩の黒田清隆だった。黒田は西郷隆盛の意を受けて、藩主への礼を失わず、降伏条件も驚くほど緩やかだった。

明治3(1870)年、感銘を受けた18歳の前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、鹿児島に赴き、西郷隆盛から学んだ。彼らは、この時に西郷が語った言葉を『西郷南洲翁遺訓』としてまとめ、風呂敷包みで背負って、全国に配布して回ったのである。

山形ゆかりの人物として、帝国海軍で駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長を務めた工藤俊作艦長も忘れがたい。昭和17(1942)年3月、インドネシアのスラバヤ沖で撃沈されたイギリス艦船の多数の乗組員が海に浮かんでいるのを救い上げた。工藤艦長は彼らを「日本海軍の名誉あるゲスト」として迎え入れ、衣服と食事を提供し、衰弱している者は治療を施した。

ここで助けられた一人、海軍中尉サムエル・フォール卿は、平成10(1998)年、天皇皇后両陛下のご訪英に対して、英国内で反対運動が起きていた際に、タイムズ紙にこの逸話を紹介し、英国民の感情を和らげてくれたのである。

酒井家・本間家と領民たち、庄内藩士たちと西郷隆盛、工藤俊作艦長とフォール卿。時代は変われど、庄内は美しい報恩の逸話に彩られている。報恩が土地の遺伝子となっているからだろう。

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